物語とは何か(5):物語パターンの研究
幻想物語(3)吸血鬼物語2

森田秀二
        

 前回すでに吸血鬼の民俗と吸血鬼物語について導入的な分析をおこない、両者の登場人物像の違いも垣間見た。19世紀の吸血鬼物語に登場する都会的・貴族的で洗練され、魅力的ですらある主人公たちに比して、それ以前に現実にあらわれた吸血鬼たちはと言えば下位人間に堕した野卑な存在にすぎない。今回は後者について、その民俗的・歴史的側面から考察を進めることにする。

V.吸血鬼 vampire の民俗

 どの文化でも、そしてどの時代であっても人は死者が亡霊として舞い戻ってくることを恐れるものである。我が国の御霊信仰もそうした恐怖から生まれたものであろう。西洋における亡霊の歴史を辿ると、無惨な死に方をした者、志半ばにして死んだ者、生前乱暴狼藉を繰り返した者たちについては特に戻ってきて悪さを働くのではないか、という恐怖があったことがわかる。これに福音化の影響と思われるが、洗礼前に死んだ幼児、終油をえずに死んだ者、信仰心の見られない者が加わる。亡霊とは生者の側が抱く死者に対する怖れの投影に他なるまい。
 中世のキリスト教会は善を神に一元化した一方で、悪の方も悪魔にすべて一括して託した。亡霊などの超自然的現象を認めず、亡霊とは悪魔が人を騙して見させる幻想にすぎないというのがローマ教会の公式見解であった。そのうえで異教の風習を根絶しようとしたわけだが、司祭が告解をきくときのマニュアルである「贖罪規定書」にはキリスト教化される以前の西欧民衆の心の世界が見事に映し出されている。11世紀初頭(1008年-1012年)に成立したヴォルムス司教ブルヒャルトによる「贖罪規定書」の第180章にはこうある。

「お前は、ある女たちがそうするように悪魔に唆されて次のようなことをしたことがあるか。洗礼を受けずに子どもが死んだとき、子どもの死体を取り上げ、どこか秘密の場所に置き、子どもの身体を杭で刺して、もしそうしなければこの子は生き返り、多くの者に害をなすという。おまえがそのようなことをし、あるいはそれに同意を与えて信じた場合は、指定された日に二年間の贖罪を果たさねばならない1 」。

 第181章では産褥で死亡した母子についても同様の規定をしている。ここで悪魔の教唆とされ禁じられた異教的慣習とは、死体を杭で留めて現世に戻らないようにするというものだが、教会が取り締まろうとしたのは不幸な死に方をした者は亡霊として戻ってくるという異教的信仰自体であったろう。亡霊には肉体を持つものと持たないもの(いわゆる幽霊)の二種類あるが、杭でわざわざ留めたのは肉体をもつ亡霊を信じていたからに他ならない。クロード・ルクトゥー(Claude Lecouteux)によれば、中世のグリーンランドでは司祭が不在のとき埋葬する際には、死体を墓に杭で打ち付けたという2 。肉体をもつ亡霊を信じ、亡霊の発生を妨げるために死者の儀礼的殺害(葬送)を行う。これはそのまま吸血鬼の民俗に当てはまる迷信と風習である。

 吸血鬼はもちろん肉体をもつ亡霊(「生きる屍 mort-vivant」)である。通常は生前親しかった者のところに現れ、その者たちの首を絞めたり、押しつぶしたりする。食事を催促したり、ドアをたたいたり、あるいは単に名前を呼ぶだけの場合もあるが、いずれの場合もその後には生者の突然死が待っているのがふつうだ。
 亡霊化を防ぐための死者の儀礼的殺害(葬送)も杭で墓に打ち付ける他に、死者の目を閉じる、鼻などの開口部に詰め物をする、口に貨幣を含ませる、心臓を取り出す、斬首する(切った首が元に戻らないように死体の足の間に置くこともある)、焼いて灰にする、など多くあり吸血鬼の処置方法として文献に頻出するばかりでなく、発掘調査などでも確認されているようである。
 吸血鬼の先駆形としては、西洋古代以来の様々な民俗的イメージ(集団表象)に遡ることができる。墓地に眠る死者がまるで生者のように起きて活動する文字通りの「生ける屍(mort-vivant)」 については、ハロウィーンやフランスの万聖節(Toussaint)の起源であるケルトのソーウェン祭(samhain)にその古型をみてとることもできる。今日では子供たちが Trick or treat と叫んで菓子をもらい歩くハロウィーンだが、元来はケルト暦の前年(10月31日まで)と翌年(11月2日から)のどちらにも属さない「年と年の間」(11月1日)という魔術的時間に本来相容れない二つの世界(生者と死者)が交流するという信仰から生じたものである3 。血を吸う化け物の集合表象もアッシリア、エジプト、ケルト、中国など洋の東西を問わず広い範囲にわたり古くからあったようだ。次ページの表1は、西洋4 における吸血鬼の先駆形について特に存在様態、口唇性などの特長に注目して作成した諸表象の比較表である5
 各表象の定義は時代とともに、また著者によっても変わり、実に曖昧であり、明確に分類できるわけではない。それでもこの表によって大まかな流れを辿ることで、西洋には吸血鬼(vampire)に先立ち恐らくはそれを用意した民俗的な表象が古くからあったということは見て取れる。それら表象の特長のなかには吸血、人肉食、死体の儀礼的殺害(葬送)、氏族性、伝染性、悪魔の介入など吸血鬼民俗に直接連なるものが多い。また、古代には魔物(monstre)という形で多様な悪の形象があったのが、中世には悪の本質を悪魔(diable, démon)に一元化し、多様性は現象(幻想)に過ぎないとした教会ドクトリンの影響が見て取れる。そのなかにあって「生ける屍」は悪魔への一元化に対抗しながら中世から近代まで生き延びてきた強力な生命力をもった悪の形象なのである(この点については次回考究する)。また、古代から近代の魔女に至るまで「男を餌食にする妖艶な女」といった女性蔑視的イメージの歴史があることも見逃せない。この点については前回考察したように吸血鬼民俗ではなく、吸血鬼文学に引き継がれることになる。

 表にある形象の中で、吸血鬼(vampire)に直接受け継がれ、吸血鬼との境界もあいまいなストリガとブルコラカスについて説明を加えよう。
 ストリガは夜間徘徊しては男の血を吸ったり、その肉を食べたりする東洋起源の魔物で、4,5世紀頃に西欧でも信じられていた。古代ゲルマンの慣習法であるサリカ法典(800年頃)には「ストリガが男を食べ、それについてストリガ自身に身に覚えがあるなら、そのストリガは8000ドゥニエ、つまり金貨200スーの罰金を支払わなければならない」という条項があり、また自由身分の女性をストリガとか娼婦呼ばわりした場合に187.5スーの罰金を課していたというから、ストリガは法的にも存在が認められていたことがわかる6。今日と違い、死体にも法的人格が認められていた時代の話である。恐らくこの時点ではストリガはすでに魔物(monstre)ではなく、「生ける屍」だったのであろう。死者を被告として裁く裁判は中世を通じて行われており珍しいものではなかった。また、殺された被害者の死体が裁判に証人として出される棺桶神明裁判では、被疑者は死体にかけて無罪を誓うのだが、もしそれが偽証ならば死体の傷口から血が流れ出すことになっていたという7。「アイスランド・サガ」には死んだ被告が亡霊となって出廷する裁判の話がある8 。被告と被害者を入れ替えれば黒澤明の『羅生門』の世界だが、生者の世界と死者の世界の境界が曖昧で死者もまた生きていたのが古代の西洋世界だった。
 ストリガはヴォルムス司教ブルヒャルトによる「贖罪規定書」の第70章で次のように言及されている。

「ある女は悪魔に欺かれて女の姿に変身(これは愚かな者たちがストリガ、ホルダと呼んでいる)した悪魔の群れとともに、悪魔の命令によってある種の動物に跨り、決められた日の夜に悪魔たちと集まらねばならないといい、その通りにしうるというが、お前はそれを信ずるか。お前がこの背信行為に関わっていた場合は、指示された祭日に一年間の贖罪を果たさねばならない9 。」

ここに登場するストリガはサバトを主催する悪魔そのものである。ここにおいてストリガは、魔物や「生ける屍」を認めない教会により悪魔にされていたことがわかる。

イメージ名
「原義」

存在形態

性別

外見・変身

行為

出典、出現する場所

lamie
(lamia)
ラミア

魔物

頭・上半身は女、体は翼のはえた蛇
→豊満な女に変身

子供をさらう、若い男の血を吸う[吸血]
人を食べる[人肉食]
ギリシャ・ローマ神話

empuse
(empousa)

魔物

青銅の足
→豊満な女に変身

若い男の肉を食べる[人肉食]
夜、眠る男と交わり血を吸う[吸血]
ギリシャ神話

lilith
リリス

人間・魔物

アダムの最初の妻(イヴの前)(旧訳聖書イザヤ書34章14節10)

男のスペルマを飲む[吸精]
子供の血を飲むという話もある[吸血]
古代バビロニア、ヘブライ、

goule
「男を食べる悪魔」

魔物

女(男)

 

通行人、死人の肉を食べる[人肉食]

千夜一夜物語

sorcière
sorcier
魔女(男)

人間


(男)

動物に変身

悪魔との契約[悪魔の介入]
 

loup-garou
狼男(女)

人間


(女)

手のひらの毛、親指が人差し指より長い。
→オオカミに変身(全身もしくは一部[目、歯、爪、毛])

悪魔との契約[悪魔の介入]
退治するには銀玉が必要[儀礼的葬送][人肉食」
長男が跡を継ぐときにのみ、死ねるという説もある[不死性]
 
血を吸う死体

生ける屍


(女)

 

悪魔がとりつく[悪魔の介入]
隣人などを襲う[氏族性・暴力性]
退治するには頭を切り、心臓を突き、焼く[儀礼的葬送]

西欧:イギリス(12-14世紀)

Wildes Heer
荒野の軍勢

生ける屍


(女)

 

蹄だけしか見えない馬に乗った不可視の一軍が人を襲う[人肉食・集団性」
襲われた者も亡者となる[伝染性]

西欧:ゲルマン
東欧:ロシア(11世紀)

incube
succube
淫夢魔

人間


 

悪魔との契約[悪魔の介入]
夢にあらわれ、血や精液を吸い取る[吸血・吸精]

西欧:ゲルマン

strige
(stryge)
ストリガ
「夜の鳥」
吸血鬼(古型)

魔物

→鳥、雌犬に変身

夜間、徘徊して男の血を吸ったり[吸血]、肉を食べたりする[人肉食」 西欧古代:ゲルマン

悪魔

→女の姿に変身
別名、ホレおばさん Holdam vocat

サバトの主催者[悪魔の介入]
人を食べる[人肉食]
西欧中世:ゲルマン

生ける屍

女(男)

悪魔に供血される 悪魔が生者の血を飲み、ストリガ(=死体)に注ぐ[悪魔の介入・吸血] 東欧:ロシア、ポーランド、ギリシャ北部
broucolaque, vrycolakas
ブルコラカス「完全に死んでいない者」「狼男」
生ける屍


vampire に近い

「呼ぶ亡霊」「ドアをノックする亡霊」[儀礼的葬送]
単に悪戯をするだけの亡霊もいる
南欧:ギリシャ、トルコ
狼男


→オオカミに変身

危険な狼男[人肉食] 東欧:バルカン、カルパチア

vampire (upier, oupire, )
吸血鬼

生ける屍


吸血する悪魔のこと

悪魔[=vampire]が生者の血を飲み、死体に注ぐ[悪魔の介入][吸血] 東欧:ハンガリー、モラビア、ボヘミア、ポーランド、ロシア、シレジア
生ける屍


いわゆる「吸血鬼」

生ける屍[=vampire]が生者(死者の縁者)の血を飲む[吸血]
犠牲者も吸血鬼になる[伝染性]
[儀礼的葬送]

表1

 

 ストリガの変身はさらに続く。フランスの18世紀の辞書10 をみると、辞書によって
stryge と vampire を同義とするもの、定義の異なるもの、vampire しか載せないものなど混乱が見られるが、次のように整理することができよう。

●vampire:生者の血を吸う能動的な「生きる屍」(Dictionnaire de Trévoux,1771、Dictionnaire historique du Moreri, 1759)
●stryge:受動的な死体。能動的なのは悪魔(Démon)で、悪魔が生者の血を飲み、それを死体[=stryge]に注ぐ(Dictionnaire de Trévoux, 1752、Dictionnaire historique du Moreri, 1759)
●vampire:前項の能動的な悪魔の別名(『百科全書』Encyclopédie, 1765)

18世紀には stryge の方が多少古風な響きをもっていたにしても、vampire に完全に置き換えられる前の移行期らしく、両者に混同があったのであろう。ストリガが受動的な死体で、能動的な主体をあくまでも悪魔が担うとする考え方には中世の教会ドクトリンの残映をみることができる。
 かくして、古代に魔物から「生ける屍」へと存在様態を変えたストリガは、中世の教会ドクトリンによりサバトを主催する悪魔とされ、近代に至っては悪魔から血をもらう受動的な死体へと変わる。古代の「生ける屍」が中世教会による悪魔一元化をかわして生き残り、近代には吸血主体(悪魔)と供血受益者(ストリガ)に二極化されて再登場するわけである。一方、近代語である vampire が悪魔を指す場合は中世的な意味が残る用法と言えるが、生者の血を吸う「生きる屍」、いわゆる「吸血鬼」として使われる場合は、古代のストリガに近い用法に戻っている。

 ギリシャ版の「生ける屍」であるブルコラカス(broucolaque)の方は、破門された者や自殺者などが教会の墓地に埋葬されなかったために、魂が肉体を離れられず彷徨する「生ける屍」のことである。東欧の民俗の影響があるといわれている。識者により説明に違いがあり一様な定義はない。例えば、18世紀のレオ・アラティウス(Leo Allatius)によれば、ブルコラカスは悪魔に取り憑かれた死体でその呼び声に返事してしまうと返事した人は翌日に死んでしまう。ただ、ブルコラカスは一度しか呼ばないので、現地の住民たちは必ず二度呼ばれるまで返事しなかったという11 。呼び声に答えると死を招くというのは後で紹介する12世紀のウォルター・マップの挿話と同じであり、クロード・ルクトゥーのいう「呼ぶ亡霊」(l'appeleur)にあたる。片や12世紀の西欧の出来事であり、片や18世紀の南欧の慣習だが、時間と空間を隔てて脈々と続く根強い集合心性の姿をみる思いがする。同じレオ・アラティウスがブルコラカスは遠くからでも人を殺せると書いているので、殺害方法も一律ではないようだ。さらに、後に言及するフランス人植物学者トゥルヌフォールが17世紀にギリシャで見聞したブルコラカスの場合、殺人とは程遠く、家具をひっくり返したり、ランプの灯を消したり、後ろから人に抱きついたり、殴ったり、要するに器物破損と傷害程度の悪戯っ子の亡霊に過ぎないから一種のトリックスターとも考えられるが、この場合でも死体の処刑(葬送)儀礼は通常通り行われ、心臓摘出の後、さらに火葬されている。

VI.吸血鬼 vampire の科学

 近代以降、吸血鬼の存在をそのまま信じる人はさすがに少なく、吸血鬼(イメージ)の出現を「科学的」に根拠づけるために遺伝病、悪夢、ペストなどさまざまな説が提出された。以下に諸説をまとめてみる12

●ポルフィリン症(porphyrie)は陽光にあたると赤血球が壊れ皮膚を萎縮させるという恐い遺伝病で、犬歯の変形や顔面蒼白などの症状を伴う。瀉血が伝統的な治療法で、ニンニクが発症を促進すると言われる。特に吸血鬼の故郷カルパチア地方で発生率が高いという報告もある13
●スペクトロパティ(spectropathie)は夜、死、虚無に対する怖れからくる幻覚で、圧迫感を伴う。ジャン・グゥーン(Jean Goens)は、「吸血鬼はスペクトロパティspectropathie の数多い表現の一つに過ぎず、人間は妖怪や亡霊など様々な形を与えてきた」と書いている。この説はオーストリア皇后マリア・テレジアの侍医をしていたヴァン・スヴィテン(Van Swieten)博士が1755年にすでにとなえていた説だったらしい。グゥーンによれば、博士は当時出されていた吸血鬼についての報告書を非科学的と断じ、死体に腐敗がないのも寒さ、密閉性、土質などから説明できるとしたようである14
●ペストやコレラが流行した時代と吸血鬼伝説が生まれた時代に時間的重なりがみられる。細菌という観念のない時代の人々は、伝染病による連鎖的な死を超自然的な悪意によるものと考えたのではないかという説。これは次の「早すぎた埋葬」説とも関連する。
●棺でもがき苦しんだ痕跡が吸血鬼伝説を生んだのではないかという説。確かに医学が未発達の時代には昏睡状態や麻痺状態などが死と判断された可能性もある。これはまた生きたまま埋葬されるというエドガー・アラン・ポーの不安につながる15 。当時の医学レベルを考えるならばてんかん症状の誤診によるなど根拠ある不安だったはずだ。また、吸血鬼判定に通常もちだされる、1)遺骸に通常の死体の臭いや腐敗がない、2)髪・髭・ツメ・皮膚の新陳代謝がみられた、3)口の中に鮮血が残っていた、4)棺の内部を荒らした形跡がある、などの判定根拠も「早まった埋葬」説の根拠になる。誤診は特に埋葬が短期間に行われたペストやコレラの流行時期に多かったようだ。ちなみに、シャーロット・ストーカーは息子ブラム・ストーカーに宛てた手紙の中で、1832年に起きたコレラ禍を回想してスライゴの町(アイルランド北西部)の様子を次のように描いている。「あらたに病人の一団が到着してベットが足りない場合は、阿片中毒者や死にかけている病人のベッドを通常彼らに与えています。生きたまま埋葬された人も多いとの話です」16 。この証言をもとに、伝染病→早まった埋葬→ドラキュラの誕生と因果関係をつなげば、吸血鬼文学とも無縁でない説ということになろう。
●血液愛好症(hématomanie)の「患者」は全米で5万人ぐらいいるらしい。彼らは血は健康維持、感覚錬磨、対人関係のために不可欠だと考えているようだが、実際には血は口から飲んでも消化されず物理的な摂取は不可能である。つまり愛好家は物理的に血が必要なのではない。通常、彼らには血の供給者がいて暴力的手段に訴える必要はないようだが、歴史上では16-17世紀のカルバチア山脈を舞台としたエルジェベト・バトリ伯爵夫人(Erzsebet Bathory)をはじめとする連続殺人で名をはせた「異常な」血液愛好症患者もいた。歴史上の吸血鬼としてはジャンヌ・ダルクの戦友ジル・ド・レ(Gilles de Rais:1400-40年)やドラキュラのモデルとなるワラキア(ルーマニア南部)のヴラド・ツェペシュ四世の名がよく挙げられる。20世紀になっても吸血鬼の異名をもつ犯罪者たちは多い。いずれにしても民俗としての吸血鬼を説明する事例ではない。
●狂犬病の症状が文学作品に登場する吸血鬼の行動様式を思わせるばかりでなく、18世紀(1721-28)の東欧(特にハンガリー)に起こった狂犬病の大流行が吸血鬼の登場と地理的・年代的に一致している、とはスペイン人医師(Dr. Juan Gomez-Alonso)による最近の説である17 。この説では吸血鬼文学にみられる感覚過敏(hypersensitivity)、性欲過多(hypersexuality)を狂犬病の特長としているが、18世紀に調査された吸血鬼の例では(死体の調査だから当然だが)そうした特長は報告されていない。狂犬病の症状を18世紀の実例を飛び越して19世紀に生まれた虚構作品に直接読み込もうとするのは、吸血鬼文学の作家たちが狂犬病の諸症状に通じていたとは考えにくい以上、アナクロニズムの誹りを免れない。
●結核は極めて伝染性が強く、特に衛生や栄養の状態がわるい時代には家族中が感染することもあった。そのような場合に最初の発症者に吸血鬼の汚名がかけられた例があるようだ18

 諸説の中で集合心性の観点から興味深いと思われるのは、現代でも存在する血液愛好症(hématomanie)である。血は口内摂取しても吸収されないから、これは明らかに集合表象としての血の価値が媒介となったいわば記号論的病だ。実際、血は生命的・霊的価値が過剰に付与された特別な物質であり、文化を問わず儀式の中には血が媒介となるものが数多い。キリスト教における血の意味については前回にもふれたが、ジャン・マリニーによれば、11世紀には血による贖罪の思想や聖母崇拝などのキリスト教教義が悪魔学的に解釈され、「万病克服や回春のために若い娘の汚れない血を飲むことを、呪術師や医者が勧めるようになった」という19 。この点ではバトリ伯爵夫人の悪行も中世の特殊なキリスト教教義解釈の延長上での実践であったことになろうか。
 だが、これはすでに述べたように、吸血鬼の民俗を説明するものではない。歴史軸上でみていくと吸血鬼現象を別の民俗的集合表象の長期にわたるゆるやかな流れの中でとらえ直すことができる。以下はその試みである。

VII.吸血鬼の歴史への登場

 「生ける屍」は11,12世紀のフランスとイギリスでの報告とともに歴史に登場する。これが教会との関わりで現れる点に注目しよう。
 1031年、リモージュ公会議(le Concile de Limoges)でカオール(Cahors)の司教が最初の「生ける屍」のケースを報告している。秘蹟を拒んだ騎士の死体を教会墓地に何度埋葬しても地上に出てくるので墓地外に埋葬したらおさまったという話がそれだ20 。ここでは吸血鬼という名前もついていなければ加害行為もない。1304年の公会議記録にも内容的にはこれによく似た例が報告されている21
 イギリスでは「血を吸う死体」が12世紀に登場し、幾例か報告が残っている。ウォルター・マップ(Walter Map)が残した「廷臣閑話」"De nugis curialium" (1193)の一挿話はこうである。ウェールズで1149-1182年の間に起こったことだが、不信心のならず者が死後に現れ、隣人の名前を呼ぶとその人たちが呼ばれた三日後に次々と死んでいった。ヒアフォード司教ギルバート・フォリオット(Gilbert foliot)は悪魔がとりついたせいだという。司教の言葉に従って、ウィリアム・ローダン(William Laudun)という騎士が死体を掘り出し斬首したが悪事はやまない。ついにウィリアムの名が呼ばれるに至り、彼は果敢に剣を抜いて吸血鬼の跡を追い、終いには墓で頭をたたき割った。以後、たたりはやんだ22 。クロード・ルクトゥー(Claude Lecouteux)は人の名を呼ぶだけで殺害を行う「呼ぶ亡霊 l'appeleur」の例としてこの話を挙げているが、死体を斬首しても効果がなく、たたき割ってはじめて殺すことができた点について、リアリズムに無縁な民間伝承の影響か、あるいは斬首した後に頭が元に戻らないように墓に横たわる死体の足の間に置くという当時の風習によるものとしている23
 いずれの例でも「生ける屍」となるのが生前反キリスト教的な者であった点に逆に西欧社会のキリスト教化の進展具合をみることができる。また、亡霊に対する中世キリスト教会の公式的立場はこれを認めず、すべては悪魔の仕業と見なしていたことは先にもふれたが、この点、ウォルター・マップの話で司教が悪魔がとりついたと説明するところに教会の立場が表れている。
 吸血鬼現象は14世紀にも続き、1337年と1347年にそれぞれ吸血鬼が発見され串刺しのうえで焼かれ、1343年にはプロシアのスタイノ・デ・レッテン男爵(Steino de Retten) に吸血鬼の疑いがかけられたという24 。1346〜1353年にはペスト禍がヨーロッパを襲ったという事実との年代的重なりにも注目しておこう。この後、西ヨーロッパでの報告は途絶える。以上を第1期の吸血鬼としておく。

 その後西欧で吸血鬼論争が大ブームになるのは1730年代、40年代である。1725年に吸血鬼ピーター・プロゴジョヴィッツ(Peter Plogojowitz)の死亡報告書がウィーンの新聞に載る。1732年には吸血鬼 アルノルト・パウル(Arnold Paole)についてのラテン語調査報告書(Visum et Repertum)が出版され、その直後にパウルについての紹介記事がフランス・オランダ系の月刊誌『ル・グラヌー』( Le Glaneur, historique, moral, littéraire et calotin)の1732年3月号に載り、さらに『ロンドン・ジャーナル』1732年3月号でも取り上げられる。吸血鬼(vampire)という語が西欧語に入るのもこの頃である25 。教会側としてもこの問題への対応を迫られるようになり、1746年には聖書学者として名高いドン・オーギュスタン・カルメ師(Dom Augustin Calmet)が自著『天使・悪魔・霊魂のあらわれ、及びハンガリー、ボヘミア、モラビア、シレジアの亡霊・吸血鬼に関する論考』(Traité sur les apparitions des anges, des démons et des esprits, et sur les revenants et vampires de Hongrie, de Bohême, de Moravie et de Silésie)で上記記事を紹介し否定的見解を述べるというのがこの間の動きだが、18世紀後半にはいわゆる啓蒙思想家たちも論争に加わり、揶揄もともなう否定的見解を述べたことは前回紹介した。近代的理性の光をすっかり浴びてしまった民俗としての吸血鬼はここにおいて歴史から姿を消すことになる。
 これを第2期の吸血鬼とするならば、第1期と異なる最大の点は教会側の資料ではなく、行政当局の依頼による科学的な装いを凝らした資料に基づいていることである。

 ピーター・プロゴジョヴィッツについては前回紹介したので、ここではアルノルト・パウル(Arnold Paole)についてヨハン・フリュッキンガ(Johann Flückinger)が著した調査書 Visum et Repertum を訳出するが、極めて詳細にわたり、医学的な用語も散りばめた「客観的」調査報告の体をなしていることに注目したい26

「セルビアのメドヴェギア村(Medvegia)で、いわゆる吸血鬼(vampyr)が人の血を吸っては多くの人を殺したという報告が数回あり、私は最高司令部の命を受け、この件を将校数名と二人の医務官とともに調査することになった。当地のスタラス歩兵部隊長ゴルシッツ・ハドナック氏、旗手、村の長老格であるハイドュク族(haiduk)27 の一人に聞き取り調査をした。彼らが口をそろえて言うのには、ハイドュク族であるアルノルト・パウルという名の男が5年前に干し草を積んだ車から落ちて首の骨を折った。生前、アルノルトがよく言うのには、トルコ領セルビアのゴソワ(Gossowa)近くで吸血鬼に襲われたことがある。自分が吸血鬼にならないよう、彼は吸血鬼の墓の土を食べ、吸血鬼の血を体に塗ったというのだ。パウルの死後20〜30日すると、本人に危害を加えられたと言うものが出てきた。4人が彼に殺されたという。悪行を絶つため、以前に似たような経験があるハドナック氏の提案で、死後40日になるアルノルト・パウルの遺体を掘り起こした。遺体は元のままで腐敗していなかった。鮮血が目、鼻、口、耳から流れ出しており、シャツ、経帷子、棺は血だらけであった。手足の爪や皮膚ははがれ、新しいのが生えてきていた。正真正銘の吸血鬼だとわかったので、慣例にしたがい心臓に杭を打つと、うめき声をあげ、大量の出血があった。その日のうちにアルノルト・パウルを火葬に付し、灰を墓に投げ入れた。
 彼らの話では、吸血鬼に襲われ殺された者は皆自分も吸血鬼になるので、殺された4人についても掘り起こして同様の処理をしたとのことである。また、
アルノルト・パウルは人間だけでなく家畜も襲いその血を吸っていた。そうした家畜の肉による吸血鬼もあらわれたようだ。というのも、3ヶ月の間に老若あわせて17人が死に、その中には以前病気にかかったことがないのに2,3日で死ぬ者もいたからだ。ハイドュク族のジョウィザによれば、スタナッカという彼の義理の元気溌剌な娘が15日前に寝床に入ったところ、真夜中に突然目覚めて恐ろしい叫び声をあげた。恐怖に震えた彼女が言うのには9週間前に亡くなったミロエという名のハイドュク族の倅が喉を締め付けたらしい。以後、彼女の容態は刻々悪化し、三日後に亡くなった。
 聞き取り調査後、その日の午後のうちに我々は長老格のハイドュク族に案内されて墓地を訪れた。疑いのある墓を開き、遺体を解剖調査するためである。結果は以下の通りである。
1)スタナという名の20歳の女性。3日間の病床後、2ヶ月前に産褥で死亡。生前、吸血鬼の血を体に塗りつけたと本人が述べていた。誕生後すぐに死んだ
赤ん坊は杜撰な埋葬のため半分犬に食べられていたが、女性本人とこの赤ん坊がともに吸血鬼になっていた可能性が高い。彼女はほぼ元のままで腐敗していなかった。遺体を開くと、胸腔(cavitate pectoris)に大量の血管外出血が見られた。胃壁(ventriculis ortis)の動脈内、静脈内の血液は凝固していなかった。肺、肝臓、胃、脾臓、腸などの内臓はすべて健康体にあるのと変わらなかった。子宮が膨張し激しい炎症を起こしていたのは、胎盤と産褥排泄物(おり)が腐ったままで元の場所にあったためである。手足の皮膚や古い爪は落ち、その代わり新しい爪とつややかな皮膚が生えてきていた。
2)ミリザという名の60歳の女。3ヶ月の病の後に(調査日より)90日ほど前に死去。胸郭に多量の血があった。前例と同様、他の内臓は良好。解剖に立ち会ったハイドュク族たちは彼女のふくよかで完璧な体にひどく驚いていた。彼らは死者を若い頃からよく知っていたが、生きているときは痩せこけていたから、これほどふくよかになったのは死んでからに違いないと口々に言った。さらに、前回現れた吸血鬼たちが殺した羊肉を食べたのが彼女だから、今回の吸血鬼騒動の発端は彼女だとも言っていた。
3)生後8日目に死んだ子供。埋葬後90日経過。同様に吸血鬼の症状を呈する。
4)あるハイドュク族の16歳になる息子。病後3日目に死去。埋葬後9週間経過。掘り起こしたところ他の吸血鬼と同様の症状を呈する。
5)あるハイドュク族の17歳になる息子ヨワキム。病後3日目に死去。埋葬後8週間と4日になるが、解剖の結果は同様。
6)ルーシャという名の女性。病後10日目に死去。埋葬後6週間。胸郭だけでなく胃底(fundo ventriculi)にも大量の鮮血が見られた。5週間前に生後18日で死んだ彼女の子供も同様。
7)2ヶ月前に死んだ10歳の少女。前例と同様。ほぼ生前と同じで腐敗なし。胸郭に大量の血。
8)立ち会ったハドナック氏の妻と子供の墓も掘り起こすことになった。妻は8週間前、生後8週間になる子供は21日前に亡くなっていた。墓のまわりの土は近くに吸血鬼が眠る土と同じで棺も他の棺に交じっておかれていたが、二人の遺骸は完全に分解していた。
9)ハイドュク族の歩兵隊長の下男であったラーデという21歳の若者は病後3ヶ月で死亡、埋葬されて5ヶ月になるが遺体は完全に分解していた。
10)村の旗手の妻と子供は死後5週間になるがやはり完全に分解していた。
11)60歳になる土地のハイドュク族スタンチェは6週間前に亡くなっていたが、他のケースと同様に胸郭と胃に大量の鮮血が見られた。体全体が前述の吸血鬼症状を呈していた。
12)25歳のハイドュク族ミリスは埋葬後6週間になるが、前述の吸血鬼症状を呈していた。
13)スタノイカはあるハイドュク族の20歳になる妻で、病後3日目に死去し、埋葬後18日になる。解剖の結果、血色がよいことに気づいた。上述したように、彼女は深夜に歩兵の息子のミリスに喉を締め付けられていた。右耳の下に指の長さほどの青く充血した跡が見られた。墓から引っ張り出すときに、鼻から大量の鮮血が流れ出した。解剖の結果、すでに何度も述べたように、胸郭および胃索(ventriculo cords)からも明らかな鮮血が見られた。内臓器官はすべて良好で健康状態にあった。体全体の皮下組織および手足の爪は生体並みであった。
 検屍の後、吸血鬼の首はその地のジプシーたちにより切断され、残りの身体といっしょに焼かれた。灰はモラビア川にまかれた。一方、分解していた遺体は元の墓に戻された。以上を、私は医務官と連名で証明するものである。」

 第1期の吸血鬼に比べ極めて詳細に記述されており、「生きる屍」としての身体性について腐敗がない、生体と変わらないといった「医学的」観察が事細かに連ねられる。生者の血を吸ったという直接的な証拠は第1期同様与えられないが、血の過剰さを強調することによって間接的に吸血行為を暗示しているようでもある。吸血鬼の行った具合的な悪さとしては、スタノイカという女性が首を絞められたぐらいで、クロード・ルルトゥーはこのエピソードを「首を絞める亡霊 l'étrangleur」の例として挙げている。
 一方、第1期では生前の非社会性・反宗教性(秘蹟を拒んだ、無信心)が亡霊になった理由として含意されていたが、第2期の吸血鬼にはそうした原因説明には直接には言及がない。幼児や産褥で死亡した母は、冒頭で引用した「贖罪規定書」にもあったように亡霊になりやすい死者タイプだが、報告の1)3)6)がそれにあたる。このケースが多いのは今日と違って幼児死亡率や産褥熱による母の死亡率が極めて高かったという歴史的事実にもよるであろうが28 、彼らがことごとく吸血鬼扱いされている点はむしろ民衆心理とそれをささえる集合表象から説明すべきだろう。なお、上記報告では吸血鬼の生前の人格にはふれず、その代わりに別の吸血鬼に襲われたためという伝染性がくりかえされている。報告にある驚くほどの連鎖的死亡には伝染病を疑わずにいられないが、細菌の代わりに村人たちはこれを吸血鬼という超自然的な悪意の化身をもって説明しようとしたのであろう。

 ピーター・プロゴジョヴィッツやアルノルト・パウルのケースは理性と啓蒙の西欧に吸血鬼ブームをもたらした点で歴史的に重要な例だが、これに先立つ17世紀末にもvampire という名詞こそ使われていないが現象としての吸血鬼は知られており、フランスの雑誌が言及していることはすでにふれた通りである。1693年5月、1694年2月の『メルキュール・フランセ』誌(Mercures Francois)の記事、さらに1694年10月の『メルキュール・ギャラン』誌(Mercure Galant)では吸血鬼特集まで組まれていた。以下に『メルキュール・ギャラン』誌の記事を訳出してみよう。

「彼らは正午と深夜の間に姿をあらわし、人間や動物の血を吸う。数多くから大量の血を吸うため、彼らの口や鼻、特に耳からあふれ出すことがあり、死体が棺桶の中で血の海に浮いていることもある。吸血鬼は独特の食い気があり、身の回りの布類まで食べてしまう。夜には親類や友人に暴力的にキスして死なせてしまう。犠牲者は一人に留まらず、亡霊の頭をはね心臓を開いて悪行を止めない限り、家族中に及ぶ。死んで長いことになるのに、棺桶の死体は柔らかく、弾力性に富み、ふくらみがあり、赤みがさしている。体から出る大量の血を小麦粉に混ぜ、パンを作る者もいる。このパンを食べると霊のたたりも止まり、二度と戻ってこない。」29

 先に訳出した Visum et Repertum では吸血鬼のキス(fatal kiss)にはふれておらず、唯一首を絞められた話がでてくるだけであったが、ここではキスに言及している。また、吸血鬼は吸うだけではなく、実は食欲も旺盛なことが多い。人肉や動物を食べる吸血鬼も登場するが、特に多いのはここにあるように自らの経帷子を食べる吸血鬼である。吸血鬼の口唇性に生者の側も口唇性で抗すべく、吸血鬼の血でパンを作るといったところがいかにも伝統的な民間習俗を感じさせるにしても、この記事自体はあくまでも東欧の習俗をそのまま伝えただけであり、それを信じる姿勢は必ずしもない。Visum et Repertum を読んでもわかるように、東欧では習俗として生きられていた吸血鬼が西欧では近代的世界観に反する現象として科学的に扱われたのであり、啓蒙の世紀に吸血鬼が西欧を震撼させたのは言うまでもなく報告の「科学性」からくる効果であった。超自然現象を科学的ディスクールが伝達する点にこそ近代的恐怖が生まれる素地がある。
 ドイツ語圏ではナハツェラー(Nachzehrer)と呼ばれた初期の吸血鬼が16世紀にすでに報告があり、1552年以後はプロイセンやシロンスクでは死体が噛めないように口の中に石や硬貨を入れるようになる。第1期と第2期の吸血鬼が存在条件の点ではよく似ているのだが、第1期と異なり第2期の吸血鬼が現れるのは東欧やギリシャに限られていたことが両者を隔てる重要なポイントになる。

 ところで、啓蒙主義者が吸血鬼を無知蒙昧の産物と断じる半世紀前に、西欧のある科学者の極めて近代的な視線が吸血鬼伝説に向けられていたことは注目に値する。
 トゥルヌフォール(Joseph Pitton de Tournefort : 1656-1708)はリンネの先駆者ともいわれる植物学者だが、彼が1708年に出版した紀行文「東欧紀行」(Relation d'un voyage au Levant)では、彼が調査旅行中にギリシャのミコノス島で実際に見聞したブルコラカス(V章「吸血鬼 vampire の民俗」参照)の話を載せている30 。もっとも、彼が実際にブルコラカスを見たわけではなく、むしろ伝説がいかに生まれ、民衆によって維持されていくかを近代的な科学者であるトゥルヌフォールがつぶさに観察した点で極めて興味深い報告となっている。
 トゥルヌフォールの滞在中、ブルコラカスだといううわさがたった農民の死体が掘り返され、慣例に従って心臓が取り出された。村の肉屋がその役をやらされるのもおもしろいが、死臭をまぎらすために焚かれた香をみた村人が死体から煙がでていると言い始め、すぐに人々が「ブルコラカス」と騒ぎ出す集団ヒステリーの描写はまさに伝承が維持されるための捏造のメカニズムを見事にとらえている。異臭すらなかった、あるいは鮮血があったという話にはさすがにトゥルヌフォールたちが村人たちに異論をとなえるという一幕まである。その後も亡き農民の悪さはやまず(どういうわけか著者の住む領事館だけは避けて通ったとトゥルヌフォールは皮肉っている)、地方行政官が死体消却を命じ、それでやっとおさまったというのが事の顛末である。最後にトゥルヌフォールはブルコラカスを信じるのはギリシャ正教徒だけであり、しかも今やトルコ人や教会当局の目をかすめてやらざるを得ない消えゆく風習であることを民族学や歴史学がうまれるはるか以前の時代に的確にとらえている。

 以上、12〜14世の事例(第1期)と16〜18世紀の事例(第2期)とをみたが、すでに指摘したように吸血鬼の存在様式は驚くほどよく似ている。吸血鬼と言われながら、実際は状況証拠をのぞき血を飲んだという報告がほとんどない点も同じだ。クロード・ルクトゥーによれば、18世紀初頭にモラビアで報告された「吸血鬼」は墓から出て住民たちを怖がらせただけで、人殺しもしなければ血も吸わなかったという31。この点はトゥルヌフォールが報告したブルコラカスも同じだ。奇妙なことに「吸血」は「吸血鬼」の必要条件ではない。それでは民俗としての「吸血鬼」の必要条件とは何か。結論を先取りすれば、それは「生きる屍」ということだ。「吸血」という汚名を着せられる前から古代世界には「生きる屍」が存在していた。この点について、西洋における死生観とのかかわりで改めて吸血鬼の問題をとらえ直してみたいと思っている。

 一方、両時期の重要な違いといえば、第1期は主に西欧での報告であるのに対し、第2期は東欧に限られる点である。それではなぜ第2期には東欧にしか現れなかったのだろうか。ジャン・マリニーは二つの要因を挙げている。
 まず、ルネッサンスや古典主義の近代的な思考様式が生まれた西欧に比べ、東欧が経済的に立ち後れ、教育や情報網も発達していなかったという社会学的な要因だ。第二は宗教的な理由である。すでにみたように第1期目の吸血鬼は西欧での報告があるが、ローマ教会はその後宗教裁判や魔女狩りを通して異端や迷信(民間信仰)を厳しく取り締まるようになった。それに対して、ギリシャ正教会はブルコラカスが典礼に紛れ込んだことなどにも見て取ることができるように、俗信に寛容な姿勢をとり続けた32
 マリニーの第一点目を言い換えれば、近代化が遅れた東欧では人々は相変わらず、中世の福音化に抗して生き残った古代的幻想に囲まれて生きていた、ということができよう。だが、ことはそう単純ではない。東欧にも歴史の動きは確実にあったはずだ。ジャン・グゥーンは吸血鬼騒動がおこった18世紀初頭の中東ヨーロッパで、死者たちを裁く裁判が頻発したと指摘している。これには教会だけでなく、裁判所や軍部も関与していたらしい33。吸血鬼について死体の法的位置づけの観点から考察した池上俊一は次のように書いている。「死者の法的アイデンティティへの関心は、純粋に近世のものであり、中世の法学者たちにはほとんどみられなかった」34。グゥーンが示唆するように、死者の法的地位への関心と吸血鬼という「生きる屍」に対する関心の間に何らかの因果関係があるとすれば、問題は単なる古代の迷信の存続に還元できるわけではなく、たとえ古代の残滓に発していてもその近世的変容に関わることになるはずだ。
 吸血鬼をめぐる歴史の深層に死生観・死体観の点からさらに踏み込む必要があるようだ。

 

1 阿部謹也『西洋中世の罪と罰』弘文堂、p.202

2 Claude Lecouteux, "Typologie de quelques morts malfaisants" (ウェブサイト Cahiers slaves 3 : La mort et ses representations (monde slave et Europe du Nord) [www.recherches-slaves.paris4.sorbonne.fr/Cahier3/Lecouteux.htm]

3 ウェブサイト The real origins of Halloween[www.witchvox.com/holidays/samhain/1031_realorigins.html]による。

4 以下では広くヨーロッパを指す場合は西洋とし、地域的に分けて扱う場合には西欧、東欧、北欧、南欧とする。

5 Jacques Finné, La Bibliographie de Dracula, p.25〜、Sabine JARROT, Le vampire dans la littérature du XIX au XX siècle, L'Harmattan, 1999, p.37〜、Claude Lecouteux, op.cit., Le Grand Robert électronique DMW, 1994,阿部謹也、前掲書などを主に参照した。

6 Le Grand Dictionnaire Universel du XIXè siècle de Pierre Larousse, 1866-1879(Sabine JARROT, op.cit, pp.39-40)

7 池上俊一「吸血鬼現象を読み解く」(ジャン・マリニー『吸血鬼伝説』平凡社、所収)

8 阿部謹也、前掲書、pp.32-45

9 同上、p.182

10 Dictionnaire de Trévoux,1752(及び 1771), Dictionnaire historique du Moreri, 1759, Encyclopédie, 1765(Sabine JARROT, op.cit, pp.39-42による)

11 ウェブサイト Encyclopedia Tenebrae[bloodsister.free.fr/etenebrae.html]broucolaque の項目参照)

12 Sabine JARROT, op.cit, pp.54-58、ウェブサイト Histoire des vampires[www.kazibao.net/francais/adozone/adozine/vampire/index.shtml], La représentation des âmes errantes en "vampire"[www.philophil.com/philosophie/representation/Analyse/vampire.htm]などに依る。複数の論者が言及する J. Goens, Loups-garous, vampires et autres monstres, CNRS, 1993 は直接参照できなかったことをお断りしておく。

13 以上については、どの論者もドルフィン博士[Dr David Dolphin]による1985年の学会発表によっている。

14 Sabine JARROT, op.cit, p.56

15 生きたまま埋葬される話は「ベレニス」(1835)、「早まった埋葬」(1844)で描かれている。David Galloway によれば、ポオの時代には誰もがもつ不安であり、棺内に備え付ける安全装置もあったようだ。"...the fear of being buried alive was commonplace in his time; charnel houses were equipped with alarm systems so that the 'dead' could signal for help, and luxury coffins were fitted with ventilators and speaking tubes." Introduction in Edgar Allan Poe, Comedies and Satires, Penguin Classics, 1987。

16 Sabine JARROT, op.cit, p.54

17 1998年9月21日付けロイター電による[www.angelfire.com/nj/woundedknee/vampires.htm]

18 AMERICAN VAMPIRES by Norine Dresser. Penguin Books. 1989(ウェブサイト Medical Aspects of the Vampire Myth[www.geocities.com/Athens/Acropolis/3668/medical.html]による)

19 ジャン・マリニー『吸血鬼伝説』平凡社, p.24-25

20 ジャン・マリニー、前掲書、p.26。マリニー自身、コラン・ド・プランシーの『地獄の辞典』(Colin de Plancy, Dictionnaire infernal, 1826)から引用している。なお、問題の司教はデュードネ(Dieudonné)という名で、この公会議に出席した領主たちに神の休戦(Trêve de Dieu:祝祭日などの休戦)を誓わせたことが知られている(ウェブサイト De l'An 1000 à l'An 1500[jeanlucmontant.free.fr/quercy4.htm]による)。

21 ジャン・マリニー、前掲書、pp.112-113。トニー・フェーブル『吸血鬼』(Tony Faivre, Les vampires, , Le Terrain Vague, 1962)。

22 ジャン・マリニー、pp.113-114(仏語テキストはウェブサイト Site du comte Dracula[ comtedracula.free.fr/map.html])。なお、Claude Lecouteux, op.cit. に分析・紹介がある)。ウォルター・マップは神学者であると同時にプランタジネット朝の重臣でもあった。De nugis curialium は近隣の異文化、超自然、東洋などに関する話を集めたもの(ウェブページ Un commentaire de la Dissuasio valerii de Gautier Map: le Hec epistola de John Ridewall Etude et Edition critique[www.enc.sorbonne.fr/th%E8ses/gautier/2partie.htm]による)。なお、ニューバーグのウィリアム(William de Newburgh)の「英国列王伝」"Historia Regis Anglicarum" (1196)にも別の挿話が載っている(ジャン・マリニー、pp.114-115)。

23 Claude Lecouteux,op.cit.

24 ウェブページ Vampires, les Enfants de Selene による。

25 フランス語での初出に関して前回の考察では1732年としたが、実は複数の文献が1746年に Dom Calmet がドイツ語 Vampir から借りたのが最初だとしている(Le Grand Robert, Jacques FINNEの前掲書, Le Dicionnaire Historique de la langue française, 1992。なお、Nouveau dictionnaire étymologique et historique, Larousse が初出を Buffonとしているのは間違い)。果たしてどちらであろうか。
 1732年はアルノルト・パウル(Arnold Paole)という吸血鬼についてのラテン語の調査報告書「見聞録」(Visum et Repertum)が出版された年だが、この報告がすぐに『ル・グラヌー』( Le Glaneur, historique, moral, littéraire et calotin)という雑誌(1732年3月号)で詳細に紹介され、ここに vampyre というフランス語がはじめて登場したというのが真相のようである。複数の論者が1746年説をとるのは、この『ル・グラヌー』誌の記事をさらに Dom Augustin Calmet (1672-1757)という聖職者が自著(Dissertation sur les revenants en corps, les excommunié, les oupires ou vampires, broucolaques, etc)で取り上げたのが1746年だからである。英語の vampire についてもアルノルト・パウルの紹介記事が『ロンドン・ジャーナル』1732年3月号に載ったのが初出のようだ(ジャン・マリニー、前掲書、p.52。なお、『新英和大辞典(第5版)』研究社、Online Etymology Dictionary(www.geocities.com/etymonline/v1etym.htm)は1734年を初出としている。)。ドイツ語では Tony FAIVRE が発見した吸血鬼ピーター・プロゴジョヴィッツ(Peter Plogojowitz)の公式報告書(1725)が初出ということで識者は一致している。
 いずれにしても18世紀においてはまだ vampire という言葉は完全には定着していなかったようで、例えば、フランス語辞書 Dictionnaire de Trévoux (1752)では oupire, upire などの語形も現れている。スラブ語源説については前回紹介したが、よりくわしくみると二つの系統を取り出すことができる。ドイツ語 Vampir が直接派生したグループ(セルビア語の vèmpïr 、リトアニア語 wempi[「飲む」]、トルコ語 uber[「魔女」]、セルビア・クロアチア語 pirati[「吹く」])ともう一つ別のグループ(チェコ語 upir、ポーランド語 upior、ロシア語 upyr')である。18世紀フランスではこれら二つのグループから派生した語が使われていたことになる。
 ところで vampire という語の初出については1732年をとったが、実は Dictionnaire de Trévoux における Stryges の項目それ自体が1693年5月と1694年2月に『メルキュール・フランセ』誌(Mercures Francois)に載った記事の引用からなっている。つまり、vampire という語が使われず、Stryges, Démon で説明されている点を別にすれば、近代的な吸血鬼に関するフランス語世界での内容的な言及としては1693年まで遡ることができるのである。なお、Jaques FINNE は前掲書で Tony FAIVRE (Les vampires, Le Terrain Vague, 1962)に依拠して、1694年10月の『メルキュール・ギャラン』誌(Mercure Galant)に発表された記事が吸血鬼についての最初の本格的評論であったとしている。いずれにしても、内容的な言及が1694年まで遡れることは二つの証言から確かだと思われる。

26 和訳には英訳[www.professorluscher.com/Literature/Vampire Literature/Visum et Repertum.htm]、一部仏訳(JARROT, op.cit. p.46-49)を参照した。なおジャン・マリニー、前掲書に抄訳がある。

27 haiduk については兵士の一種という考え方もあるが(英訳、和文抄訳)、ここでは『ル・グラヌー』誌の説明をとり、種族とした(Sabine JARROT, op.cit, p.49)。

28 「現在は一歳未満の赤ん坊の死亡率は千人のうち二十人であるが、17世紀のノルマンディー地方のクリュレ(オルヌ県)では、236人もいた。」「クリュレでは、五人の夫のうち一人は妻を失い、再婚している」ロバート・ダーントン『猫の虐殺』岩波書店、p.33

29 Jacques Finné, op.cit, p.45-46。訳出した原文は現代フランス語に直されたテキストなので吸血鬼にvampire という語を充てているが、1694年のオリジナル・テキストでは恐らく broucolaque が使われていたと思われる(ただし、未確認)。

30 ジャン・マリニー、前掲書巻末資料、pp.115-118

31 Claude Lecouteux, op.cit.

32 ブルコラカスが典礼に紛れ込んだ点について、マリニーは具体例を挙げていないが、ギリシャ正教の法令集に「(ブルコラカスとおぼしき)死体を見つけたら、それは悪神(デーモン)の仕業だから、司祭にお出まし願ってマリア様への祈祷をお願いし、死者の命日にはお祝いをして葬儀の食事をとること」とある(ウェブサイト Encyclopedia Tenebrae)。

33 JARROT, op.cit. p.43

34 池上俊一、前掲論文、p.106