研究業績

(著書)

  1. 『人間と情報』(山梨大学公開講座「情報」シリーズ・テキスト)、共著、平成12年3月、山梨日日新聞社、鈴木嘉彦編、総頁数235頁中44頁を担当(189頁-232頁「記号とコミュニケーション」)
  2. 『サルトル:21世紀の思想家』(国際シンポジウム記録論集:石崎晴巳・澤田直編)、共著、平成19年4月、思潮社、総頁数349頁中19頁を担当(206頁-224頁「サルトルと映画の詩学:ロマン/vs/レシ」)仏文レジュメ

 

(論文)

  1. "Le problème du récit dans La Nausée de J.-P. Sartre (1)"、 『ふらんぼー』第6号(1978)65-81 
  2. "Le problème du récit dans La Nausée de J.-P. Sartre (2)"、『ふらんぼー』第7号、(1979)93-105
  3. 「Sartreと映画」、『ふらんぼー』第10号、(1982)72-85
  4. Sartre et le cinéma  <博士論文>、パリ第7大学(1984)*
  5. "Sartre dans la salle obscure"Etudes de langue et littérature française (日本フランス語フランス文学会誌)第48号(1986)102-118 *
  6. 「不条理または喜劇的 なるもの」、『ふらんぼー』第 15 号(1988)1-10 *
  7. "Théorie et usage du langage chez Sartre"、『山梨大学教育学部研究報告』41(1990)98-106
  8. 「コミュニケーションのための初級文法を目指して」、 『独協大学外国語 教育研究 』第10号(1991)111-115
  9. 「ヴィリエ・ド・リラダンの『ヴェラ』:詩学的読解の試み」、『山梨大学教育学部研究報告』43(1992)75-83
  10. 「詩学と自意識:ポオ覚書」、『 ふらんぼー 』20(1993)15-29 *
  11. 「ポオ覚書:詩学的読解」、『山梨大学教育学部紀要』7(1993)130-151 *
  12. 「ポオ覚書:<女>たちの場所」、平成6年2月 『山梨大学教育学部研究報告』44号、101-108
  13. 「『タンド伯爵夫人』(ラファイエット夫人作)にみる恋愛物語の文法(1)」、平成7年2月 『山梨大学教育学部研究報告』45号、85-94
  14. 「『タンド伯爵夫人』(ラファイエット夫人作)にみる恋愛物語の文法(2)」、平成8年2月 『山梨大学教育学部研究報告』46号、53-60
  15. 「サルトル、あるいは<手>の戯れ(1)」、平成9年2月 『山梨大学教育学部研究報告』47、48-55
  16. 「サルトル、あるいは<手>の戯れ(2)」、平成10年2月 『山梨大学教育学部研究報告』48号、83-90
  17. 「インターネットを利用した フランス語学習の可能性」、平成10年3月 『山梨大学総合情報処理センター研究報告』Vol.1(CD-ROM)
  18. 「物語とは何か(1):物語パターンの研究」、平成11年2月 『山梨大学教育人間科学部研究報告』49号、81-88
  19. 「探偵物語とはなにか:物語パターンの研究」、平成11年3月 『山梨大学総合情報処理センター研究報告』Vol.2(CD-ROM)
  20. 「物語とは何か(2):物語パターンの研究」、平成11年12月 『山梨大学教育人間科学部紀要』第1巻一号 239-249 頁
  21. 「フランス語のアクセント付き文字の表示および処理」、平成12年3月 『山梨大学総合情報処理センター研究報告』Vol.3(CD-ROM)
  22. 「物語とは何か(3)物語パターンの研究:幻想物語(1)」、平成12年12月 『山梨大学教育人間科学部紀要』第2巻一号 217-225 頁
  23. 「物語とは何か(4)物語パターンの研究:幻想物語(2)吸血鬼物語」、平成13年3月『山梨大学教育人間科学部紀要』第3巻二号 87-97 頁
  24. 「インターネットを利用したフランス語学習メソッド」、平成14年 『山梨大学総合情報処理センター研究報告』Vol.6(CD-ROM)
  25. 「物語とは何か(5)物語パターンの研究:幻想物語(3)吸血鬼物語」、平成15年4月『山梨大学教育人間科学部紀要』第4巻二号 33-45 頁
  26. 「サルトル物語理論における視点の問題(1)」、平成15年12月『山梨大学教育人間科学部紀要』第5巻一号 122-132 頁
  27. 「サルトル物語理論における視点の問題(2)」、平成16年『山梨大学教育人間科学部紀要』第6巻二号 140-147 頁
  28. 「サルトルと映画、その後」、平成19年『山梨大学教育人間科学部紀要』 第9巻  280-287頁
  29. 「二人のシネフィル:サルトルとバザン(1)」、平成21年『山梨大学教育人間科学部紀要』 第13巻  248-255頁
  30. 「フランスにおける映画教育(1)」 、平成22年『山梨大学教育人間科学部附属教育実践センター研究紀要』 第17巻  90-102頁
  31. 「二人のシネフィル:サルトルとバザン(2)」、平成24年『山梨大学教育人間科学部紀要』 第14巻  239-248頁
  32. 「フランスにおける映画教育(2)」 、平成25年『山梨大学教育人間科学部附属教育実践センター研究紀要』 第18巻  66-84
  33. 「物語とは何か(6)物語パターンの研究:審判型物語」、平成25年『山梨大学教育人間科学部紀要』 第15巻  133-141頁

     

(口頭発表) 

  1. Sartre dans la salle obscure、昭和60年5月、日本フランス語フランス文学会春季大会
  2. Sartre et le cinéma、平成2年6月、国際サルトル学会(Groupe d'Etudes Sartriennes)(パリ)
  3. サルトルと<手>、平成9年6月、サルトル研究会、第4回例会
  4. サルトルの詩学、平成15年5月、第23回日本記号学会
  5. サルトルのプレ・ナラトロジー、平成16年7月、日本サルトル学会、例会
  6. 映画『賭けはなされた』口頭解説、平成17年10月、サルトル映画祭、東京日仏学院
  7. 映画『狂熱の孤独』口頭解説、平成17年10月、サルトル映画祭、東京日仏学院
  8. "Deux genres cinématographiques selon Sartre : roman et récit"、平成17年11月、国際サルトル学会(青山大学)
  9. Pourquoi enseigner le cinéma ? 、平成20年11月、日本フランス語フランス文学会秋季大会(岩手大学)

(教科書・参考書)

  1. 『ラ・クレ(改訂版)』共著、平成6年4月、朝日出版社(東京)全29頁(コミュニカティヴ・アプローチをとりいれ、体得できる文法学習を目指した初級教科書:共著者 朝倉剛):教師用マニュアルではゲームを取り入れた授業展開を提唱している。
  2. 『A vous de jouer:ゲームしながらフランス語』単著、平成12年4月、朝日出版社(東京)全53頁(ゲームをとりいれ、コミュニケーションの体得を目指した初級教科書):参考用ホームページ
  3. 『仏検2級直前チェック』共著、平成14年6月、 エディション・フランセーズ(東京)全122頁(文部科学省認定実用フランス語技能検定試験2級用参考書:共著者 パスカル・アルヴェ)
  4. 『仏検合格のための傾向と対策:2級(新訂)』単著、平成13年7月、エディション・フランセーズ(東京)全249頁(文部科学省認定実用フランス語技能検定試験2級用参考書、CD付:1988年7月初版、1991年11月改訂、1995年4月全訂、2001年7月新訂)
  5. 『仏検合格のための傾向と対策:準一級(改訂)』単著、平成16年3月、エディション・フランセーズ(東京)全293頁(文部省認定実用フランス語技能検定試験準1級用の参考書:1996年11月初版、2004年3月改訂)
  6. 『仏検合格のための傾向と対策:準2級』共著、平成19年6月、エディション・フランセーズ(東京)全203頁(実用フランス語技能検定試験準2級用参考書、CD付[共著者 アニー・シバタ]:2006年10月試行版、2007年6月初版)

 

(啓蒙的論文)

「 気楽に読もうフランスの雑誌」単著、平成元年4月〜2年3月、『ふらんす』連載(白水社)(フランスの各種雑誌の記事を取り上げ、語学的・文化的解説を加えた。中・上級フランス語学習者向け)

「フランス語で書くためのレシピ」共著、平成13年4月〜14年3月、『ふらんす』連載(白水社)(様々な状況において正しく、効率的にフランス語を書くための実例と解説。中・上級フランス語学習者向け。共著者:パスカル・アルヴェ)


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研究論文のレジュメ

  

"Le problème du récit dans La Nausée de J.-P. Sartre (1)"、『ふらんぼー』第6号(1978)65-81
サルトルが確立しつつあったヴィジョンは解体された1人称(=非人称)の哲学とでも言うべきものであり、これを表現するには新しい形(小説言語)が必要であった。論文の前半では従来の知の小説(récit)に対し、生(実存)の小説(roman)を模索するサルトルの詩学(物語批判)が、文学のみならず認識論的射程をも持つ様を分析した。

"Le problème du récit dans La Nausée de J.-P. Sartre (2)"、『ふらんぼー』第7号(1979)93-105
論文の後半では、詩学的批評意識を彼の実作の中に探るべく『嘔吐』の構造分析を行った。この小説ではバルザック的な<物語>ばかりでなく、人生そのものを審美化してしまう自意識的態度(「冒険意識」)も批判されており、知の小説(récit)に対する批判を二重に含んでいる。あやうい1人称を模した言語流がつづる孤独な主人公を突然おそう<名付けられないもの>の体験は、大きな<物語>の全的否定に他ならない。

3「Sartreと映画」、『ふらんぼー』第10号、(1982)72-85
サルトルにおいて、民衆芸術としての映画は大人社会への反抗という象徴的意味をもち、戦中・戦後のサルトルはアンガージュマンとしての方向性を与えようとした。 映画に運命性の刻印をみる一方で、サルトルは映画のリアリズムにも注目し、表現媒体としての映画に対して両義的であるがゆえに豊かな可能性を見ていた。

4 Sartre et le cinéma <博士論文>、パリ第7大学(1984.9)
20世紀の<生きられた体験>とも言うべき映画は、サルトルが<想像的な>時空間を学ぶうえでも決定的な役割を果たしたが、両者の関係についてのまとまった研究はこれまでなされなかった。論文の前半では、サルトルのテキストの精密な読解により、原体験としての<映画>が帯びる象徴的・情緒的・存在論的機能を分析した。後半では、脚本家サルトルに光をあて、入手可能なすべてのオリジナル・シナリオを分析した。

5 "Sartre dans la salle obscure"Etudes de langue et littérature françaises (日本フランス語フランス文学会誌)第48号(1986)102-118
サルトルの自叙伝『言葉』の詩学的・精神分析的読解を通じて、<映画>という記号が果たす役割を分析した。サルトルの自伝空間を編む重要な糸(友愛、偶然、運命)がことごとく<映画>に発していることを示した点で、『言葉』の新しい読みを提示したばかりでなく、サルトル世界そのものの発生論的研究をも目指した論文である。

6 「不条理または喜劇的 なるもの」、『ふらんぼー』第 15 号(1988)1-10
サルトルの『シチュアシオン1』で展開される詩学とベルグソンのコミック理論との間に共通して見られる「外からのヴィジョン」を分析し、<不条理>と<滑稽>の構造的相同性を明らかにした。「外からのヴィジョン」はサルトルの哲学的記述にすら見られ、<自己欺瞞>分析が一種のコミック理論になっていること。これがさらに自意識分析へも適応され、膨大な伝記作品の結構をなすコメディアン理論へと発展していくことを示した。

7 "Théorie et usage du langage chez Sartre"、『山梨大学教育学部研究報告』41(1990)98-106
サルトルの存在論的言語論と文学的言語論の分析である。言語をコミュニケーションのための透明な道具ととらえる前者を対自存在、対他存在、共存在の3つの存在論的カテゴリーにそって分析した。幼児期の残滓を含んだ対言語関係を扱う後者については、孤独・沈黙の契機による即自的な言語としてとらえられる次元に、読者存在の登場により対他的な次元(アンガージュマン)が加わることを示した。

8 「コミュニケ−ションのための初級文法を目指して」、『独協大学外交後教育研究』第10号(1991.9)111〜115
コミュニケ−ション能力を目指す学習(「話すための文法」)が文法自体の効率化、ミニマム化にいかに寄与するかを1)文法内容の階層化、2)エラー許容度、3)文法の有意味化、4)音声中心の文法による単純化の4つの観点から考察した。1)では、例えば、主格人称代名詞の学習においても「話すため」の重要度に応じて Je > Vous > Il > On > Nous >Ils といった階層化が可能であり、それが教授法にも反映されるべきだとした。同様に近接未来 > 単純未来、能動態 > 受動態といった階層も可能である。2)は発音・文法上のエラ−について「話すための文法」の観点からその許容度を高め、「日本人的フランス語」をも認める方向で学習の効率化を計るべきだとした。

9 「ヴィリエ・ド・リラダンの『ヴェラ』:詩学的読解の試み」、『山梨大学教育学部研究報告』第43号(1992)75〜83
詩学についての一般的考察を含む、テキスト分析の試みである。コ−パスとなる『ヴェラ』を三つの部分に分け、それぞれに異なったアプローチを用いた。第1部にはミクロ・レクチュールを適用し、テキスト表層がいかに構成されているかを微視的に考察し、特に視点の動きを分析した。第2部の分析では、視点の切り返し、フラッシュ・バックなどによりいかに小説的視線が主観化されるかをみた。第3部の分析では、主人公の心理の動きを喪の否定のプロセスとしてとらえ、自己欺瞞、自己欺瞞的スピーチ・アクト、幻視者、超現実の4つの段階を現象学、精神分析、ジャンル理論を用いて分析した。 全文はこちら

10 「詩学と自意識:ポオ覚書」、『ふらんぼー』20号(1993)15-29
『鴉』とその構造分析ともいうべき『構成の哲学』では、ポオが生んだ二人の《私》がそれぞれ語り手を演じている。前者は謎を前に怖れる『黒猫』に代表される《私》であり、後者は謎にあくまでも知的にアプローチする『モルグ街の殺人』に代表される推理小説の《私》である。理論的マニフェストとも言うべき『構成の哲学』において、ポオは自らを一見アモルフな文学世界にゲシュタルトを探索する探偵に模しているのである。本稿では、ポオの2大ジャンルであると同時にポオ的主体の二つの側面 ともいうべき、悪夢の現在時を語る「怪奇」と時間そのものを空間化しようとする意図である「推理」のそれぞれの特質を論じた。 全文はこちら

11 「ポオ覚書:詩学的読解」、『 山梨大学教育学部紀要 』第7号(1993)130-151
文学の形式の研究である詩学と前意識の現象学であるサルトル哲学を用いたポオ作品の読解の試みである。ポオを「醒めた意識」と規定した導入部につづいて、前半では文学形式の改革者としてのポオをとりあげた。効果 (「プロット」)の美学により今日の内在批評を先取りしていたポオはまたその美学を実作にも応用し、各種の物語をものした。ポオが用いた効果 として、特に1)恐ろしい客体ではなく、怖れる主体にフォーカスを合わせる技術、2)探偵ものやくわせ話に使われる情報入手を巧みに遅らせサスペンスを組織する技術を分析した。「群集の人」などの作品ではこうした美学が極めて独創的な形式の遊びにまで発展している。後半ではポオ世界における「不安」の問題を考察した。「醒めた意識」とは自己そのものを対象化し、それゆえ自己に同一化できないいわば不自然な意識である。その意識が描く逆説的な運動(「天邪鬼」「偏執狂」)をポオは作品化し、神経症的な心理の前現象学的分析ともいうべき鋭い考察をおこなっている。論文の最後では、ポオの世界の基本的なテーマである「二重性」の起源にポオの「醒めた意識」があったこと、これがまたポオ作品に描かれるデジャ・ヴュ感覚の起源でもあることを指摘した。全文は こちら

12 「ポオ覚書:<女>たちの場所」、『 山梨大学教育学部研究報告 』第44号(1993)101-108
ポオの女性の名を冠した四部作の現象学的構造分析。 共時的分析 では1)対象[女]の存在の希薄さと見る側[男]の神経症的フェティシズムとの間の呼応関係、2)女二人分の場所が同時にはないという空間的限定、の二点にポオの世界の怪奇的性格をみた。結論ではポオの他の小品やヴィリエ・ド・リラダン、小泉八雲の作品との類同性も指摘した。 全文はこちら

13 「『タンド伯爵夫人』(ラファイエット夫人作)にみる恋愛物語の文法(1)」、『 山梨大学教育学部研究報告 』第45号(1994)85-94
ラファイエット夫人の三作品の構造比較を通じて恋愛物語の統辞論を抽出しようとした。その結果 、1)各作品の初期状況の違いが深層的論理(初期状況は結末に規定される)により説明できること、2)恋愛物語では「愛」は秘密性を持ち、情熱は情報の不十分さ(他者との距離)を養分とする、3)「愛」の化身であるヒーローに対し、ヒロインにおいては自己欺瞞、嫉妬を通 じた「愛」の換喩的露呈など近代的心理機制がみられることを明らかにした。 全文はこちら

14 「『タンド伯爵夫人』(ラファイエット夫人作)にみる恋愛物語の文法(2)」、『 山梨大学教育学部研究報告 』第46号(1995)53-60
前掲論文の後半部にあたる。本稿では、三作品において「偽装」や「告白」が構造要素としていかに機能しているかを比較検討した。また、他者との融合=一体化の不可能性を感じる近代的自意識の不幸のドラマ構築において、ラファイエット夫人が「愛」という古典的心理コードを無化するに必要な距離(「末期の眼」)をフィクションに導入し、中世的神話(「宮廷風恋愛」)を脱神話化するうえで大きく貢献したことを明らかにした。 全文はこちら

15  「サルトル、あるいは<手>の戯れ(1)」、『 山梨大学教育学部研究報告 』第47号(1996)48-55
主に視覚に依拠するサルトル存在論の脱構築の可能性をはらむ「手」の問題系の分析の前半にあたる。サルトル世界において、1)「手」が軽やかで能動的な超越論的意識の暗喩ともいうべき「目」と重くネバネバした受動的な「尻」の二つの存在様式の間を往来すること、2)「手」が道具的身体としての能動性(「殺す指」) と肉体としての受動性(「犯される手」「失神する手」「嘔吐感覚」)の相反する役割を演じることを明らかにした。 全文はこちら

16 「インターネットを利用した フランス語学習の可能性」、『山梨大学総合情報処理センター研究報告』Vol.1(1997)
インターネット利用によるフランス語学習の可能性をハイパーテキスト性、インターラクティヴ性を中心に論じた後、実際に語学学習用ホームページ(YU Internet French Course)を作成する途上で遭遇した問題群(フランス語のアクセント処理、フレームやインターラクティヴ性を付与するためのスクリプトの問題)とその解決法を具体的に紹介した。なお、CD-ROM媒体に発表されたため、本稿自体がハイパーテキストからなっている。

17 「サルトル、あるいは<手>の戯れ(2)」、『 山梨大学教育学部研究報告 』第48号(1997)83-90
有名な不感症の女の現象学的分析(『存在と無』)、さらにフィクションでの無意識の発見の映像化(シナリオ『フロイト』)が実は手の「自己欺瞞」の記述に他ならないことを明らかにした。また、『存在と無』で展開される一般 的性愛論が私と他者の相互的受肉に依拠しているのに対し、サルトル個人が「受動性なき能動性=サディズム」を志向していることから、現象学的記述で召還された超越論的主体と生活者サルトルとが齟齬をきたしており、前者の相互性が実は理論的構築(仮構)に他ならないことを指摘した。 全文はこちら

補足:サルトルとエロス
『存在と無』はポルノグラフィックな描写を含む。しかし、それはある意味では当然である。というのもサルトルは人間存在としての全体験の現象学的還元により還元主体の世界認識全体を記述しようとしたからであり、その対象には当然のことながら性的な描写が含まれざるをえなかった。むしろ、(ショーペンハウエルを除き)哲学者が人間存在の性的なアスペクトを具体的に考察してこなかったことにこそ不可思議さがある。
問題にしたかったのは、哲学的考察主体の問題である。デカルトのコギトの主語は「私」だが、この私はデカルトとして実生活を送る主体ではない。むしろフランス語のOnに近い無人称の主体である。だからこそ、「良識はもっとも平等に分け与えられている」と書くことができるのだ。『存在と無』の還元主体もやはりコギト主体に似た無人称主体であり、それゆえその記述(自己分析)は人間存在一般に敷衍できうるとされる。ところが、性の記述に登場するのはおよそ人間存在を代表する主体ではなく、特殊な趣味をもった実生活を引きずった人称主体サルトルその人に他ならない。
哲学的考察の主体が、人間存在の代表権を得ているかのように振る舞いながら実はいかに文化的個別性(ヨーロッパ中心主義)、ジェンダー的個別性(男性中心主義)などに加え、趣味的個別性に条件付けられた存在であるかを明らかにするというのが論文15、17の主眼であった。

18 「物語とは何か(1):物語パターンの研究」、『 山梨大学教育人間科学部研究報告 』第49号(1998)81-88
一般的な物語パターンを超ジャンル的に探る試み。「<主体>があるテスト(試練)を経て<客体>を獲得する」という欲望モデルを基本パターンとしたうえで、本稿では主に英雄度を試すテストの後に主体自身が変容する通 過儀礼の物語(英雄物語)を民話、小説、映画、報道、CM、科学番組などの開かれたコーパスの中に抽出した。本稿は物語論の概説であり、文学教育の新しい可能性を示すという密かな目論見の素描でもある。 全文はこちら

19 「探偵物語とはなにか」、『山梨大学総合情報処理センター研究報告』Vol.2(1998)
フォスターの物語理論を切り口に探偵物語の基本構造を定義したうえで、探偵物語の下位ジャンルを構造的に考察し、さらに探偵物語を可能にした文化史的背景も考究した。探偵物語は物語の自意識そのものであり、ジャンルとして生き延びるために自体のアンチ・モデルを産み出す宿命をおびていることも明らかにした。探偵物語一般を論じた本稿は実はその祖であるポオへのオマージュに他ならない。オリジナルはCD-ROM版。

20 「物語とは何か(2):物語パターンの研究」、『山梨大学教育人間科学部紀要』Vol.1/No.1(1999)239-249
「物語とは何か(1):物語パターンの研究」が「男の子の(男になる)物語」を対象としたのに対し、(2)では「女の子の(女である)物語」を主にその親族構造の超ジャンル的にみた。シンデレラ物語群が<家庭的幸福の欠如>→<欠如の解消>を基本的話線としていることを明らかにしたうえで、その深層構造を精神分析やパリ記号学派の記号論を援用して分析した。さらに、シンデレラ物語の抽象的モデルによる「小公女」「グッドウィルハンティング」などの諸作品の新しい読解を試みた。 全文はこちら

21 「フランス語のアクセント付き文字の表示および処理」、平成12年3月 『山梨大学総合情報処理センター研究報告』Vol.3(2000)
フランス語を使用したホームページを作成する場合、特にフランス語のアクセント使用のために生じる一連の困難な問題がある。この問題についてはすでにふれたことがある(15)が、ここではブラウザのその後のバージョン・アップなどの環境の変化をふまえ、問題を体系的に整理し、解決法を探った。本稿の目的はあくまでも日本での一般的なパソコン環境でふつうに見ることのできるフランス語使用のホームページづくりである。CD-ROM版。

22 「物語とは何か(3)物語パターンの研究:幻想物語(1)」、『山梨大学教育人間科学部紀要』Vol.2/No.1(2000)239-249
「物語とは何か(1)」「物語とは何か(2)」では物語パターンについて超歴史的・超文化的な抽象的モデルについて考察した。本稿は「探偵物語とはなにか」に続くジャンル論の試みである。ジャンルは文化史的背景をもって生まれ、それによって条件づけられる。本稿では幻想文学についての今までの研究成果 を踏まえ、幻想物語が生成した背景について、科学主義的世界観を身につけた近代人が他方でそれに対するロマンチックな心情的反動を覚えるというアンビヴァラントな状態に言及した。また、超自然的解釈と自然的解釈の間のためらいに幻想物語の本質をみたトドロフに依拠しつつ、そのためらいのモーメントはジャンルと言うよりは一種のモードであり、これを幻想モードと名付けるならば、探偵小説などにも見られるモーメントであることも明らかにした。 全文はこちら

23 「物語とは何か(4)物語パターンの研究:幻想物語(2)吸血鬼物語」、『山梨大学教育人間科学部紀要』Vol.3/No.2(2002)87-97
「物語とは何か(3)物語パターンの研究:幻想物語(1)」では幻想物語というジャンルについて、発生の文化史的背景に言及しつつ、その形態的特長をみたが、本稿では幻想物語の具体例として、民俗的形象としての吸血鬼、および吸血鬼の登場する物語についてその発生の文化史的背景を考察した。キリスト教イデオロギー史上に位 置づけうる吸血鬼が皮肉にも啓蒙の世紀18世紀にあらわれたことの意味、19世紀に登場した文学的形象としての女性像「宿命の女」と女吸血鬼の関係、さらにヨーロッパの幻想物語の申し子である作家ラフカディオ・ハーン作の「忠五郎のはなし」が実は吸血鬼物語であること、などが本稿で考究した諸問題である。全文はこちら

24 「インターネットを利用したフランス語学習メソッド」、『山梨大学総合情報処理センター研究報告』Vol.6(2002)
AVJメソッドは筆者が平成12年に上梓したフランス語教科書『A vous de jouer:ゲームしながらフランス語』(平成12年4月、朝日出版社、全53頁)を基にした html ベースのフランス語学習メソッドである。基になった教科書は、クラス内でインフォメーション・ギャップ・ゲームをしながら初級レベルのフランス語運用力を養成する趣旨のものであったが、AVJメソッドは限られた授業時間数を補完するための自習用副教材として開発した。 全文はこちら

25「物語とは何か(5)物語パターンの研究:幻想物語(3)吸血鬼物語2」、『山梨大学教育人間科学部紀要』Vol.4/No.2(2003)33-45
前稿(22)の導入的分析に引き続き、吸血鬼物語の背景をみるために吸血鬼の民俗および歴史に焦点をあてて考察した。吸血鬼は肉体をもつ亡霊(「生ける屍」)であり、西洋の死体観の歴史上に位置づけることができる。吸血鬼の歴史への登場は二期にわたる。第1期は11〜14世紀の西欧で宗教者によって報告されたもので、悪魔の仕業とするイデオロギー的解釈が施されている。第2期は17世紀後半〜18世紀半ばまでの期間に東欧で起こった事例が学術的体裁で報告され、西欧に吸血鬼ブームを巻き起こした。「生ける屍」は古代西洋に遡る観念だが、吸血鬼は霊魂と肉体を峻別するキリスト教の公認イデオロギーと基本的には相容れず、第1期では悪魔の仕業とされた。吸血鬼は勿論啓蒙思想とも相容れないのだが、啓蒙の世紀に超自然現象が科学的ディスクールで報告されたことで逆説的に近代的な恐怖を産み出す。この点で、19世紀の吸血鬼文学の生成に結びつくことになる。全文はこちら

26 「サルトル物語理論における視点の問題(1)」、『山梨大学教育人間科学部紀要』Vol.5/No.1(2003)122-132 頁
サルトルの物語理論の生成と影響について、focalisation(焦点化)の問題系を中心に考察した。その結果、1)サルトルの「神の視点」を忌避する規範的立場は彼の存在論的リアリズムだけではなく、J・リヴィエールの『冒険小説論』以降のNRFを中心とした文壇のエートスにも依っていること、2)テキスト表面に視点の問題を微細に読みとるデモンストレーションにより実践面(人称のリライト操作や情報の過剰・過少性判断など)においても記号論へ影響がみられる点などを明らかにした。全文はこちらwordファイル

27 「サルトル物語理論における視点の問題(2)」、『山梨大学教育人間科学部紀要』Vol.6/No.2(2004)140-147 頁
『シチュアシオンI』でモーリヤックにおける視点のハイブリッド性をいかに攻撃したかについては論文26で論じたが、奇妙なことに同じサルトルがドス・パソスにおける視点のハイブリッド性の方は賛美するのである。その理由は、両者における内部性、外部性の意味が違うからである。モーリヤックにおける運命論的視点とは実はフランスの心理小説の伝統上にある心理分析者による外部的な注釈であった。それに対して、ドス・パソス的視点はサルトル自身『指導者の幼年時代』で実践したような一見主格的な視点(それが証拠に文法的にはテキストの3人称を1人称にリライトできる)だが、そこに紛れ込んだ外部性=世間を炯眼なサルトルは見逃さなかったのである。後のブレヒト論でサルトルは映画を同化芸術、演劇を異化芸術として対比して論じることになるが、それを先取りするならば、通常の主観的リアリズムに依拠する小説ではintimateな小説主体に対して読者は同化(identification)しようとするのに対し、ドス・パソス的主体には読者に反感をさえ覚えさせる異化効果(distanciation)があると言うことができる。世間の視点を内在化してしまう非本来的な登場人物に対し読者は異化の距離をとるのだが、サルトルはドス・パソスにこの視点を発見し、自作品(「指導者の幼年時代」『言葉』)でその技法を借りたのである。 全文はこちら(wordファイル)

28「サルトルと映画、その後」、『山梨大学教育人間科学部紀要』Vol.9(2007)280-287頁
本稿は筆者の先行論文を受けながら、サルトル学における1990年以後の成果も踏まえた研究動向の最新報告である。全文はこちら(pdfはこちら

29「二人のシネフィル:サルトルとバザン(1)」、平成21年『山梨大学教育人間科学部紀要』 第13巻  248-255頁。全文はこちら

30「フランスにおける映画教育(1)」 、平成22年『山梨大学教育人間科学部附属教育実践センター研究紀要』 第17巻  90-102頁

Notre travail comportera en partie préliminaire l'histoire de l'éducation du cinéma au Japon et en France jusqu'à la Seconde Guerre mondiale, ainsi que la seconde partie qui présentera la situation actuelle de cette éducation en France (à paraître dans la prochaine publication de la revue). Dans le Japon d'avant-guerre où les films destinés à l'enseignement scolaire étaient projetés le plus souvent dans les salles de réunion des écoles primaires ("kodo"), le cinéma était considéré essentiellement comme moyen servant les autres matières scolaires. Or, certains éducateurs cinéphiles (partisans de "l'enseignement du cinéma pour le cinéma") inspirés des théories européennes insistaient sur les valeurs représentatives et cognitives du septième art.  En France, les enfants regardaient les films, en dehors du cadre scolaire, dans les salles obscures. D'où naît cette passion cinéphilique de nature non scolaire qui se transmettra de génération en génération pour former des cinéastes de la Nouvelle vague, des chercheurs universitaires de la sémiologie du cinéma et enfin des éducateurs qui mettront en place une politique d'éducation du cinéma d'aujourd'hui. 全文はこちら

31 「二人のシネフィル:サルトルとバザン(2)」、平成24年『山梨大学教育人間科学部紀要』 第14巻  239-248頁。 全文はこちら

32「フランスにおける映画教育(2)」、平成25年『山梨大学教育人間科学部附属教育実践センター研究紀要』 第18巻  66-84

Dans cette partie de notre travail, nous nous limitons à montrer comment en France l'éducation au cinéma est organisée et dispensée à l'école élémentaire et au collège  (dans la prochaine publication de la revue, nous en rendrons compte au niveau supérieur).  Cette éducation originale est le fruit de la longue tradition de l'amateurisme appelé "cinéphilie" ainsi que des recherches scientifiques menées depuis la fin de la Guerre ("filmologie" et puis "sémiologie du cinéma").  Voici les principes qu'elle se fixe : le cinéma étant enseigné comme art (et non pas comme outil didactique), la culture cinématographique devant être partagée démocratiquement par tous les élèves au moyen des cours les plus divers (pratique artistique, histoire des arts) et des activités facultatives (atelier artistique, classe à projet artistique et culturel [PAC]) soit dans l'école soit en dehors de l'école.  Il nous reste à examiner comment ces principes basés sur la passion cinéphilique se concrétisent dans les classes artistiques. 全文はこちら

33「物語とは何か(6)物語パターンの研究:審判型物語」、平成25年『山梨大学教育人間科学部紀要』 第15巻  133-141頁、全文はこちら


「サルトルと映画の詩学:ロマン/vs/レシ」(『サルトル:21世紀の思想家』所収)仏文レジュメ(フランス語原文前文はこちら

"Deux genres cinématographiques selon Sartre : roman et récit"

Suivant la tradition d'origine gidienne, Sartre supposait l'antinomie entre roman et récit dans son esquisse d'une théorie romanesque (Situations I). Cette antinomie sera aussi reprise dans sa critique du film d'Orson Welles (Citizen Kane), comme si dans l'univers sartrien la même grille normative s'appliquait à la fois à la littérature et au cinéma et que le roman (avec le point de vue de Dieu) et le film (avec le temps rétrospectif) étaient convoqués au même tribunal pour être reconnus coupables de ce que Sartre définit par le terme de récit. Le parallélisme d'entre ces deux médiums se consolida pendant l'occupation allemande en vertu de l'historicité revendiquée par l'un comme par l'autre.
Or, leur parenté esthétique risque d'être ébranlée par la contingence, qui, posée par Sartre comme négation de la beauté nécessaire du cinéma, n'alimentera néanmoins que le roman (La Nausée). Nous essaierons de suivre ainsi l'itinéraire de la relation entre roman et cinéma chez Sartre.


Pourquoi enseigner le cinéma ? 、平成20年11月、日本フランス語フランス文学会秋季大会(岩手大学)(フランス語原稿はこちら


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