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カメラワークモンタージュ句読法

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映画の世界

 映画の空間(espace filmique)とはフレームの内側の可視空間[→champ:実際にスクリーン上に見えるもの]とフレームの外側の不可視空間[→hors-champ:スクリーンに見えるものが示唆する実際には見えない背後世界]が構成する想像的な空間である。映画は我々に断片的な情報(現象学でいう射映)しか与えてくれないが、我々の方ではそれがある全体=世界から取り上げられた断片であると見なさずにはおかない。部屋の一部が示されれば部屋全体を、さらにはそれがおさまる建物、あるいはそこに住む者の日常生活までをも我々は想定してしまう。そこには断片がある全体を示唆してしまうという強力なレトリックの拘束がはたらいている。映画の時間も同様である。場面と場面の合間に「そして5年後」というクレジットが入れば、このわずか5秒間のうちに向こう側の世界では5年が消費されたのだと観客は信じる。というのも、それが映画の世界を受容するうえで観客が暗黙にかわした契約だからである。20世紀を通じて獲得された映画の話法をすでに体得してしまった我々観客は知らないうちにこの契約にサインしていたのである。

こうした物語の時・空間に対し、撮影現場での現実の時・空間[→ hors-cadre]がある。パリのアパルトマンのセットとサイゴンの豪邸のサロンのセットがスタジオではとなりあっているかもしれないし、映画の最終場面が実際には一番最初に撮影されていたということもあろう。ふつうの映画ではこれら二つの世界の混同は極力避けられる。役者がカメラの方を見てはならないとする古典的な不文律は想像空間への現実空間の侵入を禁じたものに他ならない。


 

それにしてもこの映画の世界は魔力に満ち、我々を魅せずにはおかない。現実の世界の方は我々のためにあるわけではなく、我々はたまたまそこに投げ出されたにすぎない。この世界にたとえ意味があったとしても、それを知ることはないだろう。ところが映画の世界ではすべてが意味を持っている。その意味がすぐにはわからなくとも、ある目的=終焉に向けていずれ収斂することになることを観客は知っている。ひとたびスクリーンの前に腰をおろしたならば、世界は興味深い相貌を、しかも興味深い相貌のみを見せ、我々は一挙にその特権的な証人となるのである。スクリーンに映された風景は単なる自然ではない。主人公たちが生きる世界のトーンそのものを提起している。そして、主人公の冒険を助けるか、あるいは邪魔をする。嵐はやってくるのではなく、物語によって召喚されるのである。アップで映し出されたナイフはすでにそれがいずれ使用されることを予告している。

『北北西に進路を取れ』では、見渡すかぎり人影もない平原にケーリー・グラントが立っているだけという数分間におよぶ長いサイレント・シーンがある。そこにやがてプロペラ複葉機がやってきてグラントを襲撃するのだが、それと同時に広大なトウモロコシ畑は(銃殺刑に処されようとする人間に対する背後の壁のように)逃げ場をうばう殺人空間となってしまう。


映画はまた音楽でもある。映像に伴う音楽のことだけではない。そもそも映像自体が音楽的なのである。映画では(少なくとも理想的には)無駄な時間は一切排除され、緩急のリズムが自由にしかも効果的に配されている。我々のエモーションをひたすら持続させるために...

「主題なんか、どうでもいい。演技なんか、どうでもいい。大事なことは、映画のさまざまなディテールが、映像が、音響が、純粋に技術的な要素のすべてが、観客に悲鳴をあげさせるに到ったということだ。大衆のエモーションを生み出すために映画技術を駆使することこそ、わたしたちの最大の歓びだ。『サイコ』では、その歓びを達成できた。観客をほんとうに感動させるのは、メッセージなんかではない。俳優たちの名演技でもない。原作小説のおもしろさでもない。観客の心をうつのは、純粋に映画そのものなのだ。」ヒッチコック『ヒッチコック映画術』p.288

「スクリーンの上で泣いているあの未亡人、たしかにそれは私ではなかった。しかし、彼女と私は、たったひとつの魂しか持ってはいなかった。すなわち、ショパンの『葬送行進曲』である。彼女の涙が私の目を濡らすには、それだけで足りた。予言などなにもできないくせに、自分が予言者であるように感じていた。裏切り者が裏切る前に、彼の悪業は私のなかに入っていた。城館ですべてが平穏無事のときも、不吉な和音が、暗殺者の存在を知らせた。あのカウ・ボーイ、あの銃士、あの警官たちはなんと幸せだったろう。なぜなら彼らの未来は、あの先触れの音楽のなかにあって、現在を支配していたからだ。途絶えざる歌は彼らの人生と一体となり、歌が終わりに近づくにつれて、勝利あるいは死へと、彼らを運んでいった。彼らは待ち望まれていた。危険にさらされた若い娘に、将軍に、森の中で待ち伏せしている裏切り者に、火薬樽のそばでがんじがらめにされ導火線を走る焔を悲しげに眺めている同僚によって待たれていた。この走る焔、処女と略奪者とのこの闘争、大草原を馬で走る主人公、このようなすべての映像、すべての早い動きなどの交錯 、そしてその下を流れる「深淵への競争」のすさまじい音楽(これは、あの『ファウストの劫罰』からとられた交響曲の断章で、ピアノのために編曲されたものだが)、すべてこれらのものは、たったひとつのことを形成していた。つまり、それは《運命》だった。主人公は馬から降りて、導火線の火を消す。裏切り者が彼にとびかかって、ナイフの決闘がはじまる。正確な音楽の展開と一体をなしていた。それは、宇宙の秩序を隠すことのできなかった贋の偶然だった。最後のナイフの一撃が、最後の和音と一致したときのなんという悦び!私の希望が満たされた。私は生きたいと思っていた世界を見いだした。絶対に触れたのだ。電灯が再び点されたときのなんという不快さ。これらの登場人物たちへの愛で、私はひき裂かれていた。ところが彼らは、彼らの世界とともに消えた。私は彼らの勝利を骨身に感じていたのだが、それは彼らの勝利であって、私の勝利ではなかった。町に出ると、私は自分を、また余計者に感じた。」サルトル『言葉』p.86


映画がいかに人工的な構築物であるとはいえ、映画の最大の魅力のひとつはやはり演劇のような紙に描かれた風景ではなく、本物の自然を見せてくれる点にある。たとえ召喚された嵐にしろ、それは本物の嵐なのだ。モデルとコピーの関係は演劇のような約束事による象徴的なものではなく、コピーはあくまでモデルの機械的な複写であり、モデルがはらむ偶然性(contingence)までも忠実に持ち込んでいる。かくして、幻想(illusion)の世界に逃避したいと望みながら、同時にそれが現実に限りなく近いものであってほしいという人間の深い願望を映画は最大限実現する手段となった。

「物語が起こる場所で撮影された映画だけが真にリアルな映画である」(エリック・フォン・シュトロハイム)

無声映画の傑作『タブー』(ムルノー[1931])はシンプルでセンチメンタルな筋立てだが、南太平洋を舞台に現地の素人俳優が演じるドラマはドキュメンタリー・タッチの淡々としたストーリー展開の中にも強烈なドラマ性をはらみ、迫真力に満ちた映画である。特に最後の場面(愛する女性を連れ去る酋長の小舟を泳いで追う主人公の若者。舟に追い付いた若者がつかまる綱をたち切る酋長。若者はふたたび大海に投げ出され、やがて海中へ姿を消す)はまさに自然自体が物語の作用因=負の登場人物となるドラマチックなシーンである。

「装置や造作とか、たとえ撮影所にこしらえられたセットであろうとも、本物であることに私は執着する。だから、実際の場所ではどうしても撮れない場合には、写真で完璧な資料をつくり、セットに本物そのままに再現する。」『ヒッチコック映画術』p.258


こうして映画は事物を観念ではなく<事物そのものとして>映し出す手段となる。対象(referent)の現実性・偶然性(<それ>が<そこ>にある)はそれを映す映像にまで不可分に刻印されている。その結果、映画は特定の対象を示さざるをえないという制約にもなる。映画は言語のような交換価値を持たないため、対象(referent)を記号の遊びで自由に指し示すわけにはいかないのだ。たとえSFXなどの発達のおかげで現実的な対象( referent )による制約から飛躍的に自由になっているとはいえ...

したがって、映画の存在論は事物の個別性(individualité)に依拠することになろう。観る者は「車のメーカー、女の衣装、悪漢のひげ」(サルトル)にまで関心を持つ権利を得ることになる。物語の展開上からみれば「無駄 なディテール」(バルト)が実はリアリティ効果(effet de réel)を与えるというのが小説理論の常識だが、映画の場合は記号論的な選択からディテールを加えるのではなく、存在論的にディテールが不可避なのである。ある特定の車を示すか、あるいは車を全然出さないかのどちらかであり、「車」という観念をあらわす映画の記号は(少なくとも一次的には)存在しない。

「映画が見せてくれるのは、一般的な<家>とか<木>ではなく、あくまでも個別 的な家であり、木である。」 M.Martin, Le langage cinématographique , p.19

『サイコ』の舞台について:「あの屋敷が不気味な雰囲気をかもしだしたのは、ある程度、偶然と言っていい。北部カリフォルニアあたりには、じつはあれに似た一軒屋がたくさんある。[...]あの屋敷は、なにも古いユニヴァーサルの怪奇映画のムードをだすためにこしらえたわけではないんだよ。わたしは、ただ、正確厳密にやろうとしただけだ。あの屋敷は実際にあった家の正確な再現だった。モーテルもそうだ。」『ヒッチコック映画術』p.279

エイゼンシュタインの映画のスチール写真(photogrammes)の分析("Le troisième sens" in L'obvie et l'obtus )において、R・バルトは情報や象徴といった意味作用とは別の「第3の意味」の読解をおこなっている。「第3の意味」とは、「[情報や象徴のように]あまりにも明確であまりにも暴力的な意味を鈍化するもの」(そのため数学で「鈍(い)角」というように「鈍い意味」sens obtus と呼ばれる)、「知力をもってしても捕らえきれない余分な補足的」意味である。例えば、エイゼンシュタインの映画に出てくる顔を例にとるなら、宮廷人の化粧の塗り具合が「ポッタリとしていたりスベスベしていたり」、鼻が愚かそうであったり、眉毛のラインが実にはっきりとしていたり、金髪が色あせた金髪であったり、といった<所記なき能記(signifiance)>が意味を逸脱しながら画面 を補填している。髪の毛までがとらえがたいフェティシュになりうる。「第3の意味は(少なくともエイゼンシュタインの映画では)物語性を破壊することなしに、映画を別 の仕方で構造化する。それゆえ恐らく、この第3の意味のレベルでのみ初めて、<フィルム的事実 le filmique> が姿をみせるのだ。」(Ibid., p.58、拙訳)


映画はものの現前(présence)を現在(présent)において与える。映像の力は基本的には空間と時間のこれら二つのリアリティに因っている。時間については対象(référent)の持つ時間性が基本的な制約となる。

確かに時の一致を厳格に守ろうとする映画は限られる。

<時の一致>はアリストテレスの『詩学』の再解釈の過程で古典時代(17世紀)に確立された演劇作法であるが、当時からいくつかの解釈があった(J.Schérer, La dramaturgie classique, Nizet)。ゆるい意味でとらえるならば24時間以内の出来事を2時間ぐらい(つまり、通 常の上映時間)で描くことになる。そうした映画は枚挙にいとまがない:『特別な一日』(エットーレ・スコーラ)、『賭けはなされた』(ジャン・ドラノワ)、『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン)、『死刑台のエレベーター』(ルイ・マル)、『二十四時間の情事』(アラン・レネ)。それに対し、上映時間と物語られている出来事の展開時間がほぼ同じという、厳格な意味での<時の一致>を守っている映画ということになれば数はぐっと限られる:『アンドレとの夕食』(ルイ・マル)、『ロープ』(ヒッチコック) 、『5時から7時までのクレオ』(A・ヴァルダ)

映画には場面と場面の間に流れる時間を省略するための様々な句読法があるからだ。だが、個々の場面 はやはり現実の時間性に支配されざるを得ない。個々のショット、個々の場面を流れる量的時間がまずある。これにモンタージュなどの手法で時間的ひねりを加え、その質的価値を操作しているわけだが、量的な時間が存在論的優位性を保つことにかわりはない。たとえ、スローモーションやアクセレレーションを加えてもこの点は同じだ。量的な時間が実際に流れているという事実がもつリアリズム(effet de réel)は絶大である。

『獅子座』(エリック・ロメール)では友人やパトロンたちがすべてバカンスに出かけた後、パリにひとり取り残された男が次第に乞食になり果てる姿を描いている。夏のパリを歩くというごく当り前の仕草を長いシークエンスで追うことにより、日常的時間性の中に潜む時間の不可逆性が描かれることになる。

『結婚生活の風景』(イングマル・ベルイマン)は結婚、離婚、再会というドラマを生きる男女の25年間を6話(計168分)で描く大作だが、各エピソードの結構をつくるのは(サルトルの『出口なし』を思わせる)登場人物の関係そのものが作り上げる想像的な閉鎖空間 であり、ここに閉じ込められた人物たちが生きる日常的時間性である。

勿論、実際にはカメラ・ワークをはじめとする技術的・芸術的媒介がモデル(描かれた対象世界)とコピー(描く映画)の関係を複雑にしているのだが、観る者はこうした仲介に気がつかず、まるで嵐のど真中に自分が直接巻き込まれたかのような印象を持つ。カメラはこちらの網膜に張り付いた不可視の視線であり、われわれはこの視線がとらえた対象の前に無媒介的に投げ出されたかのような気持ちになる。


観る者が無媒介的に対象を見ているように思うのは、映画が表現・代行(représentation)の芸術であると同時に同一化(identification)の芸術でもあるからだ。それに対し、演劇はむしろ異化(distanciation)の芸術と言えよう。演劇のデコールは概念的なものに留まる。映画を観るときの意識が知覚意識に近いとしたら、演劇を観るときの意識は言語記号などを読み取ろうとする意識に近いと言えよう。 また、舞台の上の俳優は観客にとってあくまで他者にとどまる(サルトル『想像力の問題』)。

同一化はまず知覚の同一化からはじまる。映画に描かれる知覚はわれわれの現実の知覚を巧みに模倣するからだ。

人間が何かを知覚するとき、対象がこちらに飛び込んでくる<出来事としての知覚>(voir, entendre)とこちらから対象に注意を向ける<学習としての知覚>(regarder, écouter)とがあろう。出来事が問いを生み(s'interroger)、主体を情報収集(s'informer)に向かわせる、というミニ・シークエンスは登場人物と観客が共有するごく当り前の行動論理にしたがうものだ。したがって、主体に向けられていたカメラがものにむけられたならば 、われわれはそのものが主体によってみられた客体であると判断する。

現実においても映画においても、一連のショット(射影)を通してはじめて全体が与えられる。断片的知覚(情報)によりある全体を認識・想定する現実の知覚を映画はそのまま模倣しているかのような印象を与える。

「『サボタージュ』で少年がそれと知らずに爆弾を持ってバスに乗り込むシーンでは、爆弾の入った包みを何度もアングルを変えて撮った。こんなふうに、まるで生きた人間の表情をいろいろな角度からとらえるようにして撮ったカットを重ねていくと、爆弾そのものが生命を持ってくる。カットの積み重ねは、生命のないものに生命を吹き込むことだ。どのカットも同じアングルだと、観客はその包みになれてしまって、『なんだ、要するに、包みじゃないか』と思ってしまう。しかし、わたしはこう言ってやりたいのだ、『ちがう、ちがう、これは爆弾だ。いつ爆発するかわからない危険な代物だ。気をつけろ!』とね。」『ヒッチコック映画術』p.274

知覚レベルでの同一化がなされ、場合によってはこれが心理的な同一化への橋渡しをすることになる。逆に言えば、登場人物への心理的な同一化には知覚レベルでの同一化が必要なのだ。

映画は<物自体>を複写し、われわれにそれを知覚する機会を与えてくれるが、物語の媒体(メディア)としての映画はこうして基本的にはわれわれの知覚をたくみに操作している。ニュース報道などにおいても、カメラへの知覚的・心理的同一化が無自覚のうちにおこなわれるが、このことの危険性は言うまでもない。 湾岸戦争報道で見られたように、われわれに示される戦争の「現実」とは、すでにアメリカ軍の報道管制によりフィルターをかけられ、ビデオ・ゲーム趣味を思わせる編集を施された映像に過ぎないという事態が起こりうるからだ。カメラに同一化したわれわれは、この断片的情報をあたかも現実の一部(射映)を見るかのように見てしまう。だが、戦争の現実は正に映像として与えられなかったところにあった。


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Date created: 97.10.31