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  シャルル・ペロー(Charles Perrault:1628- 1703)著『教訓付きの昔話集〜がちょうおばさんの話』(Histoires ou contes du temps passé. avec des moralités : Contes de ma mère l'Oye,1697)。 1697年バルバン書店版にあるクロズイエの版画。
 
 

 

「物語は人類の歴史とともに始まる」(バルト)

  • 実際、世界は物語に満ちている。民話、神話、歴史、小説、映画、コンピュータ・ゲーム、井戸端会議。そして自分の脳が目覚め再び寝入るまでの間、果てしなく繰り返される内的独白。この意識流ですらしばしば物語の形を借りる。物語とは人間の脳が世界を認識・分類し、世界と自分との関係を認識しながら造りあげていくために必要不可欠な媒体なのではないか。ともかく、脳のエコノミーは物語を必要とするようだ。
  • 人生そのものが物語に極めて近いように思われるのは、人が人生をそれをあたかも物語るかのように生きているからだ(サルトル『嘔吐』)。無秩序に積み重なる我々の生、それに秩序、価値を付け加えようと我々は工夫を凝らす。アルバム作り、物語作り。
  • 人間の脳は基本的に一神教なのではないか。脳に日々インプットされる膨大な情報を処理・統御するためには、ある強力な求心・遠心的な磁場の中心が必要なはずだ。それはあるときは神と呼び、あるときはエゴと呼ぶ。ともに磁場の中心(虚点)に与えられた名。もちろん、それを実体化するために神もエゴも外部に投影されるのだが(サルトル『自我の超越』)。中心を想定することにより、情報処理は効率化される。
  • 脳のこうした中央集権化により脳は絶大な決定力を与えられる。神あるいはエゴという絶対存在のためなら、脳が宿っている身体の死をも厭わないほどの行動力さえ生まれる。それが自らの死を意味することを脳の絶対主義(玉砕主義)は強力な自己イメージを生成することにより隠蔽してしまう。あの世での永遠の生のイメージ。
  • 物事や人事を理解可能なものにするために、人は物語の論理に依拠することもあれば、物語の疑似論理、つまり<本当らしさ>の経験則を用いることもある。
  • まるで何を語るかは二の次で、ひたすら語る行為だけにのみ意味があるかのように人は語り続ける。語ることを止めると同時に人生も終わるという人生と物語の等価性を生きるシェラザードのように、絶えまなく。それほど物語はいたるところにあり、しかもあらゆる形を纏って生き延びる。客観的であるべき実用的テキスト(ドキュメント、科学など)ですら、実はしばしば物語の結構を借りている。
  • テレビのワイドショーはホットなありのままの事実を報告するという建前になっているが、できるだけ多くの消費者(読者・視聴者)に「事実」を味わわせるために相当な味付けがなされている。悪者扱いされた人物には義憤にかられた手紙が殺到する。「勧善懲悪」は物語消費者の感情を有効にコントロールする隠し味なのだが、それが利くためには悪玉 が何としてでも必要になる。客観的な情報を提供するはずのニュースもワイドショー化するにしたがい、悪玉を必要とするようになった。本来ならば権力者として悪玉側にやられるはずの首相でさえ、「改革」を唱え、さらにその改革に反対する勢力を指さすという巧妙な身ぶりにより善玉の地位を得てしまう。政治すら、いとも簡単に物語化されるのだ。ある大国の大統領にいたっては、evilという正に勧善懲悪ストーリーに不可欠な形容詞をかってはソ連に、最近では一国の指導者に冠し、世界を泥沼の物語に引きずり込んだ。戦争はお伽話として語られる(正当化される)。ならず者(フセイン)にレイプされた無垢のヒロイン(クウェート)を救うのはヒーロー(アメリカ)に他ならない("Metaphors can kill"という印象深い文で始まる、湾岸戦争時の政治場面におけるメタファー分析についてはG.Lakoff, "Metaphor and War: The Metaphor System Used to Justify War in the Gulf"を参照)。
  • 私たちの脳では日々膨大な情報が処理されている。脳が統一性のある効率的な情報処理をおこなうためには物語へのコード変換が必要なのだ。かくして、「善・悪」「幸・不幸」「天・地」「生・死」「男・女」あるいは「私・他者」といったイメージ( ゲシュタルト ) がくっきりと浮かび上がり、同時にそれらが構成する「世界」が像を結ぶことになる。(構成された)「世界」が予め(即自的に)あるのではなく、 私たちは今挙げたようなカテゴリーにより(所与としての)世界を分節しながら「世界」像を織りなし続けているのである。
  • かくして、「世界」は知覚可能なものとなり、さらに感情にとって(有利な)投資対象ともなろう。事実は予め与えられた物語図式に当てはめられるのである。うまくあてはまらない場合は、事実の方が変形されて無理にでも当てはめられるであろう。さもなくば、排除・検閲されるだけだ。

     以下では物語とは何かという問題を具体的にみていくことにしよう。●物語の形は自由なのか、あるいは定型みたいなものがあるのか。物語はどのような部品からできているのか。物語は誰が語っているのか。物語はどの視点から語られうるのか。●とはいえ、抽象的に論じても身近な問題とは感じられないから、具体的な物語作品(活字媒体、映像媒体)を解剖しながらみていくことにしたい。●好むと好まざるとに拘わらず、私たちは物語にさらされている。少しでも賢い物語消費者・生産者となる術を身につけたい。