農民と風景画
「絵画が風景を発見するにしたがい、風景画から農民が排除されてきた」パトリック・プラド
Patrick Prado, "Paysages sans paysans" in L'Homme nº138, avril-juin 1996, 111-120のレジュメ
Los Angelesのような格子状で中心のない街はヨーロッパ人には居心地が悪く、ヨーロッパの都市には住む人がそことの関わりで身ばかりでなく心の位置決定までもできる座標の中心みたいなものがあるという(ロラン・バルト(Roland Barthes, L'empire des signes, Skira:邦訳『象徴の帝国』ちくま学芸文庫)。 というのも、ヨーロッパ都市の中心は真実と現実が充溢する場だからである。
「精神性(教会)、権力(オフィス)、金銭(銀行)、商品(デパート)、言葉(カフェ、遊歩道などのアゴラ)といった文明的諸価値が集中・凝縮されている。中心に向かうことは、社会の<真実>に出会うことであり、<現実>の充溢に加わることである。」(同上) 東京の中心とは何か。バルトが日本論にも載せている江戸の地図をみると観念上の中心が「御城」つまり現在の皇居であることが明示されている。これは必ずしも今日の東京に住む者の実感とは合わないかもしれないが、戦前から住む人はごく自然に持つ概念的配置であろう。バルトは皇居が東京の中心であり、それが空虚な中心だと書いたのである。バルトの日本論には当時の日仏学院長モーリス・パンゲ氏との会話に大きな影響を受けたことがわかっている。パンゲ氏は後に秀逸な日本の自殺史(La mort volontaire au Japon, Gallimard:邦訳『自死の日本史』ちくま学芸文庫)を上梓することになる日本文化研究者であり、バルトは象徴天皇制そのものについてもパンゲ氏から情報を得ていたことであろう。しかし、バルトが皇居の空虚さを描くのは政治分析によってではなく、タクシーという都市を動く記号の分析によってである。堀や木々に囲まれ、その住人(つまり天皇)が姿を見せない皇居をタクシーが迂回する運動。空虚な主体のまわりをよけて弧を描いて走る車の軌跡をバルトはラカン派精神分析でいう想像界(l'imaginaire)の運動になぞらえるのである。
ヨーロッパ都市と江戸との違いは内部空間の構成にも見られる。
「江戸の都市空間は様々な仕方で仕切られ、幾重にも分節化されて、市民の生活に身近になればなるほど、細やかな人間的尺度の空間にまとめあげられていたのである。」陣内秀信、前掲書、182 つまり、ヨーロッパ都市が強い求心力をもつ中心を核として成り立つ抽象度の高い空間概念が構成されていたのに対し、江戸は人間的尺度の空間が充足単位としてあり、抽象的・概念的な球心運動は弱かったということである。フランス語でも人間的尺度の空間を指すquartierという言葉があるから、日常的な空間はそこで充足していたのだと考えられるが、球心運動はそれとは別にあったということだろう。 江戸の分節化のキーワードとして陣内が考察するのは、枡形、木戸、路地などである。 これらが機能的にも視覚的にも閉じられた世界を作り、地区毎の個性をうむと同時に社会靱帯としての結束を強めてもいた。要するに空間的まとまりと人間的なまとまりを産んでいたのだ。江戸は富士や筑波といった遠景とこうした都市の中の村社会としての近景からなっていたのである。
「江戸の道は、それが直線的な目抜き通りであっても、ローマのバロック道路やパリのシャンゼリゼのように通景(ヴィスタ)の効果をねらった都市を貫通する晴れがましい権威的な道としてはイメージされていないのである。このような木戸は夜には閉じられ、町人は管理の下に置かれたが、逆に安全が保障され、治安はまことによかった。」同上、183- 「(江戸と西欧的な都市)両者を図式的に対比させるならば、中心によって一元的に組み立てられる<広場社会>と、無数の末端が充実していることによって都市社会の安定を生んでいる<横丁社会>として捉えられ、こうした社会の仕組みが都市形態にも直接反映していると考えられる。」184-185
- パリ(地図)、パリ(街路・絵)
- 江戸(地図)、江戸(街路・写真)、江戸(街路・絵)
「建築とは境界をつくって「内部」と「外部」とを区別する技術であり、境界から内に向かって求心的に空間を秩序立てる方法である。」芦原義信『街並みの美学』岩波現代文庫、5頁
外部のような内部:フランス国立図書館、
内部のような外部:
穴居1(troglodyte)、穴居2(troglodyte)、穴居3(troglodyte)
ホモサピエンスに共通すると考えられる知覚的傾向:超文化的特長
普遍的な二項対立的空間観念と非対称性
- 前>後:
- 表玄関[+]、裏口[-]
- 前方[+]=未来、後方[-]=過去、
- 左<右:
- 右[+]=善、聖
- 左[-]=悪、不純
- 開>閉:
- 開いた空間[+]:自由、冒険、光、公共、公式、不変(メガロン、アトリウム)
- 閉じた空間[-]:安全(子宮)、私生活、闇、生物(アゴラ、フォーラム)
- 上>下:
- 天>地:
- 天[+]
- 地[-]
- 男>女:
- 白>黒:
- 明>暗、光>闇、生>死、正>負
- 白[+]:喜び、純粋さ、善
- 黒[-]:呪い、邪悪、冒涜、死
- 中心>周縁
- 我々>彼ら
- 出発点<帰着点・定位点:文法的非対称性 (帰着点が特権的)
- to, in/at:
to there<there、in there<there、
- 第4文型(I give an apple to him→I give him an apple)
- フランス語のà:habiter à〜, aller à〜→y
- 日本語の「へ」「に」
- from:from there>
there
- フランス語のde:venir de〜→en
- 日本語の「から」
→cf.元風景 proto-paysage「人間とその環境の間に必然的に存在する視覚的な関係」ベルク、1990、p.16)
Jay APPLETON, The Experience of Landscape, London, 1975
→cf.認知科学的アプローチ:下條信輔『<意識>とは何だろうか』講談社現代新書
- メタファーを通した空間認知:"The Contemporary Theory of Metaphor" by George Lakoff のレジュメ
空間認知における身体的・物理的媒介性: 対人距離、移動スピード
プロクセミックス:対人状況での主観的空間意識(エドワード・ホール『かくれた次元』による)
1)密接距離:体温、息、におい、触感、視覚像の歪み、生理的不快感を起こしうる
近接相(0〜15センチ)愛撫、慰め、保護、格闘
遠方相(15〜45センチ)ささゆき、ひそひそ
2)個体距離:人間の空間的ななわばり:「社会心理学者は個人の身体のまわりに泡のようにひろがるその空間を自我の延長とみなしている。そこに他人が侵入すると自我そのものが侵されたような不安感が生じるからだ。」57頁(からだの前方が左右や後方のおよそ2倍、男は女の2.5〜3倍)
近接相(45〜75センチ)
遠方相(75〜120センチ):触ることができる、表情が読め、個人的な話が可能
3)社会距離:互いに隔離する距離
近接相(1.2〜2.1メートル)、遠方相(2.1〜3.6メートル):非個人的な話、
4)公衆距離:特定の個人としての特長が消える(人がアリにみえてくる)
近接相(3.6〜7.5メートル)、遠方相(7.5メートル以上)
移動する身体(スピード) と風景の構築
「為す(faire)」=「持つ(avoir)」:所有の存在論(サルトル)
「スキーの意味は、ただ単に、急速な移動ができるということや、技術的な巧妙さを獲得することにあるのではない。それはまた、ただ単に、私のスピードやコースの困難さを意のままに増し加えて遊ぶことにあるのでもない。スキーの意味は、この雪原を所有することを私に許してくれるという点にもある。今では、私はこの雪原を何ものかたらしめる。言い換えれば、スキーヤーとしての私の行動そのものによって、私はこの雪原の素材と意味を一変させる」「私はこの雪のスロープを把握するためにある種の観点を選んだ。その観点は、私から流出する一定のスピードであり、私は意のままにそれを増減することができる。このスピードは通過される雪原を、一つの限定された対象として構成する[..](例えば、<歩いて>見物したプロヴァンス、<自動車で>、<汽車で>、<自転車で>見物したプロヴァンスのことを考えてみよう。ナルボンヌからベジェまで、1時間で行くか、半日で行くか、あるいは二日がかりで行くかに応じて、言い換えれば、ナルボンヌがその付近とともにそれだけとして孤立するか、あるいはナルボンヌが例えばベジェやセートと密接に結びついた一群を構成するかに応じて、プロヴァンスは種々の相貌を呈する。」サルトル『存在と無』第三巻、334-335
感覚器官の延長としてのメディア
速度:航空機、鉄道、自動車
視点:航空機、宇宙船
飛行機からみた地上の図柄(地形学:客観的形状)と地上から見た風景(風景学:主観的透視像)→中村『風景学入門』
サンテクジュペリの幻想的(=航空機的)視点
メディア:絵画、写真、映画、通信(電話、インターネット)
空間認知における政治的な次元:祖国の風景
唱歌
外国に長期間滞在すると、当然のことながら祖国を思うものである。ただ、視覚的に思い浮かべるということはあまりない。もっと観念的なものだ。例えば、私がパリにいたとき、ときどき「赤とんぼ」のような文部省唱歌を想った。聞こえるともなく、歌うともなく、歌というより恐らく一種の観念のようなものとして想った。「夕焼け小焼けの赤とんぼ〜」 だが、それと同時に情景が浮かぶのだ。これもまたはっきりとした情景ではない。なつかしさが刻印され、なつかしさという感情と分けることができない<情>景。あるいはなつかしさに浸りたいという気持ちが予めあり、それがある心的映像を単にアリバイとして召喚しただけだったのだろうか。だが、祖国を懐かしく思う(思いたい)とき、唱歌が媒介となって感情を支えるというのは実はどの文化にもあるわけではない。文部省唱歌は明治政府の国家政策として作られたものだ。当時の一流の作曲家と文学者をあつめたプロジェクトは見事に成功したというほかはない。なぜなら、国家意識というものが近代が捏造した制度的な空間認識だとしたら、文部省唱歌はそれに正に情感をともなったアリバイを与えたからである。「赤とんぼ」に心動かされるとき、人は「日本」という祖国を信じることになる。
「愛国心には二種類ある。地域的なものと、帝国的なものだ。」とイーフー・トゥアンは書いているが、文部省唱歌はまさに帝国(nation)がまるで地域(pays)でもあるかのような、幻想的実体性を帝国に付与している。
政治的空間区分の歴史
- 日本:→藩→県
- フランス:pays→departement, region
空間の相対論
生物学的相対論
ユクスキュル『動物の環境世界と内的世界』1909系統発生の全段階においてそれぞれの空間感覚があって、それに応じた数だけの世界がある
「通常考えられているような、自然が動物に順応を強いるというのは正しくない。逆なのであって、それぞれの動物固有の欲求に合わせて動物が自然を構成するのである。」山口陽子「自己と環境を関係づける生物システムの原理」『アエラ情報学がわかる』
「自分のいる環境を自己の身体座標を超越した場所として統合し(これは認知地図と喚ばれる)、その情報を海馬に表現しているということです。ラットが迷路を走り回る最中の海馬からの電極の記録で、実験的に明確にわかるのです。」70
人類学的・政治学的・歴史的相対論
デュルケーム『分類の未開形態』『宗教生活の原初形態』
- 集合的感覚としての空間意識
- 空間の区分けは構造として社会の形態に対応している
- 空間=大きな円:北米、オーストラリア→部族の円形に対応
- cf. 東京の虚点としての皇居=日本人の精神構造のメタファー(バルト)
シュペングラー『西洋の没落』
- 空間感覚=「基幹的記号」
- 政治制度、宗教の神話、倫理観、科学的原理、絵画・音楽・彫刻などに内在
- 空間=石造りの狭い道:エジプト
- 空間=自然を通って祖先の墓にいたる道:中国
- 空間=コスモス:ギリシャ→
- cf.空間=フロンティア:ターナー説「フロンティア→アメリカとヨーロッパにおける民主主義の促進」→空き空間の喪失→国立公園建設:1872年イエローストーン公園
フランスにおける風景の捏造
太陽王は支配可能な自然(規則的庭園、見晴らせる平原)のみを美的対象として認め、支配できない自然を忌避した。→光学的秩序(ordre optique)
19世紀の近代国家は文学者や画家の手を借りて、国家を表徴する典型的な風景を求めた。それは他の国家と差異化する風景で、なおかつ国民性を説明する風景でなければならなかった→国家主義と風景
絵画史にみる空間のとらえ方の変遷
- 中世:封建的(人物の大小=人物の重要度)
- 近世:遠近法の理論化(1435年:アルベルティ)
- 神の秩序、自然の調和、人の美徳の統一ある絵画空間
- 当時のフィレンツェの「目に見える比喩」
- 現代:印象派、キュビズム、セザンヌ
- セザンヌ:奥行き感の減少、多視点遠近法
- 「物理学の原子理論と場の理論において、空間が成分をもち活性的でもあると認められたように、絵画でも空間が二つの積極的な様態で認知される。その成分的機能はキュビズムの、物と物の間の空間の表現において最も明確であり、活性的機能の方は、空間にある物によって活力を与えられた空間を描いたヴァン・ゴッホ、ムンク、セザンヌ、未来派に見て取ることができる。」S・カーン、49
造園史にみる空間のとらえ方の変遷
- 中国式庭園:遊歩者の視点→風景学的まなざし
- 日本式庭園:
- イギリス式庭園:
- フランス式庭園:幾何学的、造園者(王、造園家)の視点→上空飛翔的、地形学的まなざし
建築史にみる空間のとらえ方の変遷
- 「19世紀は内側から外に向けて建築することを忘れていたのだ。外見のために内実を犠牲にした、正面(ファサード)重視の建築であった。」ヘンドリク・ベルラー
- 20世紀:建築の真の目的=「空間の芸術」
哲学史にみる空間のとらえ方の変遷
デカルト
カント
ニーチェ
オルテガ・イ・ガセット:遠近法主義
「唯一不変の現実は存在しない。視点の数だけ現実がある。」
ハイデッガー、サルトル文学史にみる空間のとらえ方の変遷
- 民話・神話
- 中世
- 古典主義
- 都市と田園
古典演劇の舞台は都市である。『ドン・ジュアン』で森・田園が登場するのは当時としてはむしろ例外的な事態であった。
『クレーブの奥方』においては、パリでの宮中、貴族宅が主要な舞台となるが、クレーブ夫人がヌムール公から離れるためにこもるクロミエの別荘も,ヌムール公がクレーブ夫妻の会話を立聞きするという極めて視覚的な有名な場面の舞台となる。- 19世紀
- 20世紀
- ヌーヴォーロマン