徽典会(きてんかい)は、山梨大学教育学部の同窓会である。
|
徽典会の名称は、昭和25年6月(1950年)山梨大学学芸学部の設置に伴い、前身校同窓会を包括した同窓会として発足するにあたり、新しい名称として採択されたものである。 |
|
「徽典」・「徽典館」とは
|
「徽典」という語句は、中国最古の経典である書経舜典(しょきょうしゅんてん)の「慎徽五典」〈慎しみて五典を徽(よくす〉から採ったもので、集伝には「五典とは五常なり、父子は親あり、君臣は義あり、夫婦は別あり、長幼は序あり、朋友は信あり、とは人これなり」と解釈している。したがって徽典館とは、倫五常の道を修める所という意味である。 |
|
徽典館の生い立ち
|
母校山梨大学の淵源、徽典館の沿革は、遠く江戸時代までさかのぼる。
徳川幕府は江戸に昌平黌(しょうへいこう)を開き、武家の子弟に漢学を教授して文運を開くことに勉めた。その分校に甲府の徽典館と駿府の明新館とがあり、この徽典館こそ母校の淵源である。
寛政7年(1795年)甲府城内に創設された。当初は甲府学問所とよばれ、寛政8年(1796年)勝手小普請役の富田富五郎(武陵と号す)を教授方に迎え、勤番の子弟や農工商の有志の者に漢学を教授した。
その後、文化2年(1805年)大学頭(だいがくのかみ)林 衡(はやしたいら)によって「徽典館」と命名され、また、白河城主松平越中守定信の書によって徽典館の三文字が扁額に刻まれ、学舎のび間に掲げられた。
徽典館の学頭は昌平黌から教授二名が派遣された。学館は順次移転拡張改築を重ね、校名も時代の要請によって開智学校、師範講習学校、師範学校と変遷を重ねたが、常に甲斐の教学の中心として年と共に発展を遂げてきた。
かくて母校は、昭和24年(1949)山梨大学開設にあたって山梨大学学芸学部となり、昭和41年(1966年)山梨大学教育学部と改められ、更に平成10年(1998年)山梨大学教育人間科学部に改組されて今日に及んでおり、同窓会もまた健全である。 |
|
山梨大学開設以前の同窓会
|
山梨師範学校・山梨青年師範学校が山梨大学学芸学部となる以前は、それぞれの学校の同窓会が活発に運営されていた。山梨師範学校では、古くは明治12年の教育親睦会があった。明治21年発足のけん水同窓会は、毎年二回機関誌を発行して、会員の異動や意見の交換研究発表互助などを行っていた。
その後旧雨会が組織されたが、明治32年11月(1899年)山梨師範学校同窓会が設立された。大正12年甲府市富士見町に敷地156坪、建坪70坪の同窓会館を建設し会の事務所および会員の会合宿泊にあてられた。
(師範学校第二寄宿舎としても利用された)
女子師範学校は、大正13年(1924年)に分離し、この年の秋、山梨市に移転して、同窓会も別個のものとなったが、昭和18年(1943年)女子師範学校が専門学校に昇格し山梨師範学校女子部となるに及んで、同窓会もまた男子同窓会に合流した。
山梨青年師範学校同窓会は、山梨実業教員養成所・山梨県立青年学校教員養成所・同臨時養成所・山梨県立女子青年学校教員養成所・山梨青年師範学校等の卒業並びに修了生を以て組織されていた。 |
|