|
徽 典 館 扁 額 〈1805年刻、1997年復刻〉
|
|
|
|
|
「徽典館扁額の由来」 |
|
「徽典館」の名称は、文化2年(1805年)大学頭林衡によって撰ばれ、同年9月4日、白河城主松平越中守定信によってこの3文字が書かれ、同年10月、勤番支配滝川利雍、松平定能が工に命じてこれを扁額に刻ませ、び間に掲げることにした。
この「徽典」という語句は、書経舜典の「慎徽五典」(慎みて五典を徽くす)から採ったもので、人倫五常の道を修める所という意味であろう。
その後、明治16年1月29日、本館から出火のため扁額を焼失し、明治38年(1905年)、徽典館発足百周年を記念して太田秀穂校長のおりに扁額を再生したのである。
ところが昭和20年(1945年)7月6日、太平洋戦争による空襲で扁額を再度焼失した。そこで徽典館の前身、甲府学問所発足二百周年にあたり、建学の精神を後世に伝えるため、後記の人々のご奉仕によって「徽典館」の扁額が復刻され、ここに掲げられたものである。 |
材料寄贈
|
神宮寺 誠
|
昭和17年卒
|
額製作
|
望月 岩男
|
大工棟梁
|
刻字仕上げ
|
金子 信吉
|
昭和13年卒
|
|
平成9年5月10日
|
山梨大学教育学部徽典会会長 免取 愼一郎
|
相沢 晋夫 撰 松村 文一 書
|
|
|
|
|
|
重 新 徽 典 館 碑 〈1984年建設〉
|
|
|
|
|
山梨大学教育学部の在る甲府市武田四丁目4-37、学部正門(元師範学校正門)を入ると、すぐ右の木立に囲まれて「重新徽典館碑」が建ててあり、縦180cm、横105cm、厚さ30cmの大きい石に、その昔の徽典館の由来等が刻まれている。
この石碑は、天保14年12月(1843年)建とあり、甲府学問所の開設から47年後のもので、徽典館初代学頭(学長)友野かん(霞舟と号す)が文章を、中務少輔(なかつかさしょう)浅埜長祚(あさのながむら)が文字を書き、大学頭林ひかるが額の揮毫をした。
創設以来四十余年間の徽典館の盛衰と、今回の再興のいきさつや、建学の精神を後世に伝えるために建てられた碑であり、当時を偲ぶ唯一の物的遺産としてたいへん貴重なものである。
しかし、昭和20年7月の戦災で炎に焼かれ、割れ目を接着剤で補修してあるが無数のひび割れが入り、文面は読みとり難い状況である。けれども、戦前、甲府市宝二丁目在住の小宮山喜久氏が、の碑面を拓本に採っていて、昭和40年2月徽典会に寄贈してくれた。この拓本は文字も鮮明で無二の貴重品なので、本格的條幅に装丁し桐箱に収めて保存している。 |
|
|
|
|
鈴 木 利 平 先 生 胸 像 〈1967年度改修〉
|
|
|
|
|
鈴木利平氏は、明治45年6月山梨県師範学校に奉職し、大正8年9月以降校長として永く在職された。
昭和7年3月退職されたが、その人柄と功績を讃えるため胸像が作られ、昭和8年1月除幕式を挙行した。(制作者 水谷鉄也 東京美術学校教授) 昭和18年6月、青銅製の故に供出を命じられ、代わりにセメント製の像が模造された。しかしこの像も、昭和20年7月戦災のため大きな損傷を受けた。
徽典会会員の鈴木先生への追慕の情はいよいよ高まり、再度青銅製の像を修復改鋳して昭和42年5月除幕式が行われた。
|
(撰文 徽典会会長志田延義、像修復 小池藤雄 東京教育大学教授)
|
(現在鈴木利平先生像は、学部M号館の東側庭園の木立の中に立つ)
|
|
|
|
|
徽 典 館 跡 碑 〈1973年建設〉
|
|
|
|
|
昭和45年頃から古参会員の間に、学制頒布百年記念として、徽典館跡碑建設の機運が強まり、これが昭和46年5月の総会で動議として提出され可決された。
翌年の定期総会で、徽典館跡碑建設推進委員会(後に協力委員会と改称)設置が決まり、県教委に働きかけ、学制頒布百年記念事業の一環として、昭和48年3月実現をみた。 |
◇建設地 |
甲府市中央一丁目 中央公園内(元徽典館・県立師範学校跡地) |
◇規 模 |
白鳳石 巾 150cm、 高さ 260cm、 厚さ 80cm、 自然石
|
◇碑 文 |
表 「学制百年記念」「徽典館跡碑」「山梨県知事 田辺国男書」 |
|
裏 銅板「徽典館沿革・碑の意義・学制発布百年記念、県教委」 |
|
|
|
|
|
ブ ロ ン ズ 像 「謐」 〈1989年建設〉
|
|
|
|
|
新しい徽典会の運営・同窓会の活性化を図ることをめざし、母校の環境美化の一環として、庭園美化のためブロンズ像建設事業が、昭和63年度定期総会で決定された。
ブロンズ像「謐」は、動に入る前の静のポーズを意味し、モントリオール五輪で金メダルを受賞したルーマニアのコマネチ選手が、二段式平行棒の演技に入る直前のポーズをイメージして制作された。
平成1年5月定期総会のおり建立除幕式を挙行した。
制作者小池藤雄氏の作品は、この他、県立図書館に「蒼い海」、県立美術館に「蒼い空」、甲陵高校に「プラトン像」など、県内に十数点ある。 |
|
|
|
|
|
記 念 碑 「学び舎の跡地」 〈1991年建設〉
|
|
|
|
|
大正13年(1924)、山梨県師範学校から分離移転した師範学校女子部は、山梨県女子師範学校と改称され、東山梨郡加納岩村(現山梨市上神内川)に校舎をおいた。
その後、昭和18年師範学校令の改正により、山梨師範学校女子部となり、新制大学への完全な切り替えが行われる昭和26年まで存続した。
この間、昭和16年には山梨青年師範学校女子部も併設され、昭和25年まで存続した。さらに昭和24年には、新制山梨大学が発足し、その学芸学部第二教育科もまたこの校舎で学んだ。現在山梨高校の在る場所である。
学舎のあった28年間、加納岩の地で青春の日々を過ごした同窓生にとって、時代の変遷により消失した学舎には深い想い出がある。時の流れに風化することを畏れた人々の発意と、多くの方々の情熱と芳志により、母校の跡地に碑が建てられた。
|
◇記念碑建立の経過概要 |
平成01年08月20日
|
第2回「婦人の集い」で記念碑建立についての提言。 |
平成01年08月29日
|
建設実行委員会・設立準備委員会が発足。 |
平成02年05月13日
|
徽典会定期総会で記念碑建立が、本会事業として承認。 |
平成02年08月20日
|
第3回「婦人の集い」で設立趣意書・予算・募金方法等承認。 |
平成02年09月01日
|
募金活動開始。募金締め切りは12月31日。 |
平成03年05月01日
|
碑石の選定。 |
平成03年05月20日
|
碑文の決定。 |
平成03年07月03日
|
記念碑完成、建立。 |
平成03年08月20日
|
記念碑除幕式・祝賀会兼第4回「婦人の集い」挙行。 |
|
◇記念碑建設実行委員名 |
奥山 澄江
|
伊藤 光子
|
依田さか江
|
代永 千代
|
内田 清
|
安部 春恵
|
浅川たかね
|
早川 花子
|
植松 花子
|
末木 司江
|
石川 芳子
|
中込 薫江
|
木村むね代
|
須藤 房子
|
駒井 つる子
|
古屋八千代
|
斉藤 久子
|
高保 房乃
|
加賀美佳子
|
山田婦二子
|
渡辺 恵子
|
井上 静子
|
望月 都
|
宮崎 寿子
|
今井 よし子
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|