サルトル、あるいは<手>の戯れ(Sartre ou le jeu de la main)
その1


森田秀二    




はじめに

本稿ではサルトルの世界における<手>の運動をたどる。それはサルトルのテキスト空間に<手>の存在論をあぶりだす試みであると同時に、サルトルその人の<手>の運動がいかに(構築された)存在論を巧みにかわすかを見極める試みでもある。

1)まなざし

 サルトルは<まなざし>の哲学者だといわれる。なぜか?
 サルトルの世界は次のようにして始まる。まず、部屋の中にヒトが一人いる。彼のまわりにはソファとかテーブルとか書物などが雑然とあるいは整然とならんでいる。雑然とであるか、整然とであるかはソファ、テーブルなど個物たちの関与するところではない。それを判断するのは、もちろんそこにいるヒトである。彼はそれらの個物たちを関係づけざるをえないからだ。ソファはテーブルの右にあり、書物はそのテーブルの真ん中に3冊重ねられている。こうした諸関係(ゲシュタルト)を彼は一瞬に読みとることができる。また、読みとらずにはいられない。彼の額の下にある二つの穴はいわばカメラ・オブスキュラであり、その視野に入るものを空間的に関係づける遠近法の中心として機能するからである。だが、以上では<目>(あるいは<視線>といってもよい)の機能を記述したにすぎない。それでは<目>が<まなざし>となる存在論的契機とはなにか?サルトル的世界が生まれる契機とは?それにはその部屋にもう一人のヒトを滑り込ませる必要がある。
 何が変わったか?すべてが、とサルトルはいうだろう。まず、今まで部屋の事物の中心としてすべてを支配してきた<目>がその専政を失う。部屋にはもう一つ別 の中心が生まれ、事物たちはこの新しい磁場に引き寄せられる。そして、その新しい中心である<目>にこちらの<目>が出会うとき、<目>は<まなざし>に変質することになる。もう一つの<目>を前にした<目>はもはや単に見る存在ではない。<まなざし>とはまさに関係的存在であり、それは別 の<まなざし>に見られる限りで自分の存在を支える。そして、<まなざし>と化した私が相手を見るとき、私は単に相手を見るのではない。私を見ている相手を見るのだ。私はそのことを意識している。私がそのことを意識していることを相手が意識していることまでも。だが、果 たして私は本当に相手を見ているのか?相手の<目>は確かに見ることができる。<目>は一つの対象=モノにすぎない。だが、<まなざし>は知覚的態度(見る)の対象とはなりえない。なぜなら、<まなざし>は私にそそがれているからであり、私にそそがれている限りでまさに<まなざし>だからである。要するに、私は見られているのだ。「私は無防備であって、私は何としてもその場所から逃げ出すことができない」(『存在と無』第二巻、91頁) そして、他者の<まなざし>が私がいる世界を一挙に幻想的空間(地獄)に変えてしまう。私が自分自身では決して見ることができない私の秘密、つまり私の<対他性>の鍵を握っているのが、あの<まなざし>なのだ(と私には思われる)。私が<目>を見るときと、私が<まなざし>をみるときとでは、世界のあらわれ方そのものがまるで違うのである。<まなざし>は<見る−見られる>のこのような相剋(conflit)のもとに対峙しあう。
 サルトルが描く<まなざし>の世界にはこのようにいわば神経症的(対人恐怖症的)な負荷がかかっている。だが、逆説的だが、この<まなざし>を担う器官<目>が記述対象となることは意外と少ない。これはもちろん<目>は事物の間を飛翔して世界を開示する主体ではありえても、鏡でものぞき込まない限り、自分自身を見ることができないというその圧倒的な能動性からきている。実際、サルトルはジョルジュ・アンリ・クルーゾ監督と「主観的カメラ」の映画をつくろうとしたことがあったらしいが、この映画では全編を通 して主人公の<目>はカメラの視点に同一化され、それゆえ主人公は決して姿をスクリーンにあらわさないはずであった(唯一、観客が彼の姿を目にするのは彼が鏡を見たときだけ)。
 <目>はそれ自体を対象化できず、ひたすら世界を開示しつづける。その点、サルトルのいう<意識>そのものに近い器官である(あるいは同じことだが、サルトル的<意識>そのものが視覚中心主義に陥っているといってもよい)。それが別 の<目>に出会い<まなざし>と化するとき、つまり他の<まなざし>の対象となったときは対象化されたことにはならないのか?実際、<まなざし>とは<目>の自己対象化そのものではないのか?だが、この場合、<まなざし>は他者の<まなざし>を想像的に媒介して生じたものだという点に注意しよう。<まなざし>は実体ではなく、あくまでも間主観的存在(「対他−身体」)にすぎない。<まなざし>は決して見ることはできない。<まなざし>は他の<まなざし>との距たりの意識であり、要するに<間>の意識なのだが、人間界(ヒトが人間=間ヒト存在となる次元、サルトルが<地獄>と名付けた世界のあらわれ方)を開示しながら、自らは開示する虚点として、あるいは逆に開示された世界が示す収斂 点(磁場の中心)として、やはり姿を見せることはない。見せることができない。鏡に映るのは決して自らの<まなざし>ではない。これがサルトルの世界で<目>が姿を見せないもう一つの理由である。

2)目から手へ

 サルトルによれば、<目>に限らず身体全体が実は自らを超越しつづける存在である。例えば、「私が電車を追いかけているとき、[..]<我れ>は存在しない」(「自我の超越」『哲学論文集』所収、192頁)。あるのは<追いつかなくてはならぬ 電車>(le tramway-devant-être-rejoint)についての非措定的な意識ばかり。ここでは意識の非措定的存在様式が説明されているのだが、電車を追いかけているときの<我れ>とはいうまでもなく<走る我れ>であり、走るかぎりでの<身体的な我れ>も措定的対象として自意識<我れ>と同時に否定されているのは明らかだ。<走る身体>は一次的には自己意識をもたない。
 『異邦人』(カミュ)の主人公ムルソーもまた<走る身体>、つまり自意識をもたない身体であった。彼は友人とともに昼食に出かけ、通 り過ぎるトラックに向けて突然走り出す。

「私は物音とほこりにつつまれた。もはや何一つ見えず、クレーンや機械、水平線に踊る帆柱やわれわれが沿うて走った船体のさなかに、走りたいという滅茶苦茶な熱情だけしか感じなかった。」(『異邦人』28-29頁、新潮文庫)

ムルソーの<走る身体>は自己を忘れた自発性そのものである。<走る身体>をバネにしながらも、視線は勝手に対象の方へと向かっている。今や、ムルソーは「クレーンや機械、水平線に踊る帆柱や[..]船体」を見ているのではない。クレーン、機械、帆柱、船体そのものだと言うべきだろう。ムルソーの<走る身体>は<飛翔する目>を媒介にして、いつの間にか<飛翔する身体>になっているのだといってもよい。(ここで付け加えておくと、ムルソーは昼食に出かける前に実は事務所で手を洗っている。しかもムルソーが「正午の、このときがだいすき」なのは、回転式のタオルが夕方とちがってまだ乾いているというただそれだけの理由からなのだ。<飛翔する身体>に比べ、これは後でみるロカンタンの<対自−身体>体験、<手>を媒介にモノに固着する/される身体体験にむしろ近い。)
 <目>はひたすら事物の間を飛翔し、モノの存在を開示する(在らしめる)活動的・機能的存在であり、他者の前で<まなざし>と化したあとですら、他の<まなざし>の受身的対象ではなく逆に他の<まなざし>こそを対象化(隷属化・我有化)しようとする挑発的存在であり続ける。こうして、<目>がその機能性、自己超出性により<意識>そのものを代理しやすいのにくらべ、活動的でない身体部署は、その対象=モノ性が露呈されやすいのも事実だ。例えば、<尻>は引力に抗すこともなく、人間存在のモノ性をあっさり示してしまう。それはあまりにも重く、怠惰だ。

「(歩いている人が尻を無意識に左右に振る)場合には、歩いている人のうちで行為の状態にあるのは両脚だけであり、尻は両脚によってはこばれていく一つの孤立したクッションであって、その揺れかたはまったく重力の法則に従っているように見える。」「この尻は、あらゆる偶然的な存在と同様、<余計なもの>である。」『存在と無』第二巻、398頁

尻の振り子運動は「肉体の惰性」を示すだけであり、運動=行為ではないとサルトルはいう。同じ「肉体の惰性」が対自−身体としてあらわれるならば、つまり身体の自意識によりとらえられるならば、後でみるように<嘔吐>の例となろう。だが、ここでは<尻>は見られる対象(「一種の対他存在」)にすぎない。<肉体>としての受動性が露呈されたこの<尻>をサルトルは<猥褻>(Obscène)と形容する。
 ところでひたすら軽やかで活動的な<目>とひたすら重くネバネバした受動的な<尻>の二つの存在様式の間を往来する部署がある。それが<手>である。


3)触られる手、あるいは<嘔吐>

 <手>もやはりモノの存在を開示する(在らしめる)。短編「部屋」の冒頭では読者は出端から(西洋詩学にいう in medias res 効果)、研ぎ澄まされた諸感覚が解き放たれ、モノの存在を露呈していく場面 に投げ込まれる。そして<手>が...

「ダルベダ夫人はトルコ菓子をつまんだ。その上にふりかかっている砂糖の薄い粉を吹き飛ばさないように息をひそめて、静かに唇を近づけた。<ばらみたいな匂いだわ>と思った。そして不透明なその肉にふいに噛みついた。口の中が、腐ったような香りでいっぱいになった。[...]読んでいる本のページが、注意していても白い粉で薄くおおわれてしまうので、何度もくりかえしその上を、手のひらで払わなければならなかった。すべっこい紙の上を、砂糖のこまかい粉末が、きしった音をたててころがり、すべった。<アルカッションを思い出すわ。あのときは砂浜で本を読んでいたっけ>。1907年の夏を海辺で過ごしたのだった。[...]風が吹くたびに膝の上に砂がいっぱいふり注ぐので、ときおり端をつかんで本を振らなければならなかった。それとまったくおなじ感覚だった。ただ、砂粒はかわいていたが、砂糖のこまかい粉末は、すこし指先にくっつくのだった。」(『水入らず』所収、100頁、新潮文庫)

菓子のやわらかい肉塊に食らいつくときの微妙な、ほとんど官能的ともいえる感覚の表現に続くのは、明らかにプルーストを意識した感覚的回想(réminiscence)である。ただ、プルーストと同じ味覚材料(菓子)を用いながらも、感覚連想の刺激となるのはその味ではなく、肌触りであることに注意しなければならない。サルトルの世界では、後でも示すつもりだが、触覚こそがモノの存在を媒介に触わる者の身体的存在を開示する特権的な感覚なのだ。本のページを薄く覆う粉(砂糖の粉末、砂粒)。その手触り。ただ、<手>が触るのではない。連想の原因となった砂糖の粉末は、向こうの方から手に触れて離れないのだ。<手>が触られているという受身的な感覚。対象物から常に距たり、対象から対象へ、たとえ何メートルあろうと、何百キロあろうとも軽やかに渉猟・彷徨する<目>と異なり、<手>は距たりをゼロにしなければ対象の存在を開示できない。接触こそ<手>の超越の仕方、その存在様式なのだ。そして触ることは、同時に触られることでもある。砂糖のこまかい粉末はダルベダ夫人の手にくっついて離れない。<嘔吐>とは<手>が覚える感覚であることは長編『嘔吐』に明らかだが(「それは、手の中の小石から起こったのだ。そうだ、それだ、たしかにそれだ。手の中にあったいわば吐き気のごときもの。」19頁)、それは<手>が神経網がはりめぐらされた極めて敏感な器官であるためだ。だからこそ対象物に触ることより、その性質を特定できる。これは例えば<腹>、<背>、<尻>などにはできない相談だ。だが、感受性が鋭く、極めて活動的であるがゆえにまた、対象の攻撃性・抵抗力にも敏感にならざるをえない。周知のようにサルトルが苦手とする対象物の特性は粘性(ネバネバ)だが、これは敏感でかつ行動的な<手>ならばこそ感得できる物性であろう。そして<嘔吐>とはこの粘性を通 してモノの存在が開示される事態を指す。しかもネバネバしたモノはこちらの行動力を奪う。したがって、<嘔吐>とは本来自己を対象(目的)にむけて超越し続ける限りでその非措定的存在が維持される<身体>が、特にその活動性の特権的器官である<手>が、その超出性・脱自性をうばわれ、受動的なモノ存在に陥りそうになる危機的事態を指す。<嘔吐>とは運動する<身体>が身動きできない<肉体>(肉塊)と化するときの自意識といってもいいだろう。したがって、ドアのノブでさえ、ある種の粘性をもちうることにもなる。
「さきほど自分の部屋に入ろうとしたとき、私は急に立ち止まった。それはつめたい物が手の中にあって、個性的なものによって私の注意を促したのを、感じたからだった。私は手を開いて眺めた。私はただ単にノブを握っていたにすぎない。」『嘔吐』8-9頁
ノブを握るのは、ドアを開けるためである。ドアを開けるのは向こうの部屋へ行くためである。向こうの部屋へ行くのは机の上の本を取るためである。したがって、ドアのノブを握るとき、意識の対象となるのは<取られるべき−本>のはずだ。そこへ至る<握り廻すべきノブ>→<開けられるべきドア>→<入るべき部屋>は本をとるという目的のための手段であり、その道具連関を構成するにすぎない。そして、手段は目的にむけて越えられ、忘れられる。要するに、本をとるためにドアのノブを握るとき、ノブはふつう意識されない。その場合、握る<手>も意識されない。<手>も目的に向けて超出されるからだ。
 この機能的な<手>がその運動の最中に見られた場合はどうか?先ほどの事実性(対象=モノ)に堕ちた<猥褻>(Obscène)な<尻>とは正反対のカテゴリーがサルトル存在論では用意されている。それは<優雅さ>(grâce)と呼ばれる。まず、ドアのノブを軽やかに握り廻すという<優雅な>行為は<手>を「精密な道具として顕示するかぎりにおいて、(この<手>に)その正当な存在理由を与えてくれる」はずである。その<手>は「呼び求められたもの」なのだ/に見える(『存在と無』、第二巻、396-397)。この機能性(道具的存在理由)に、さらに仕草のもつ予見不可能性(精神的自由のしるし)が加わる。こうして<手>が身体としてもつ事実性(対象=モノ)は、目に入らない(「事実性は、優雅さによって装われ、覆われている。肉体の裸は完全に現前しているが、しかしそれは見られえない。」同上)。
 ところが、ロカンタンはノブを意識してしまう。それと同時に道具連関が一挙に断ち切られる。道具でないノブは単なるモノだ。モノと化したノブが今度はそれを握る<手>を弧 絶させてしまう。恐らく、ロカンタンはノブをしっかり握らなかったのだろう。ノブを<道具>の立場に追いやるだけ十分力を込めなかったのだろう。弧 絶した<手>はもはや自然には開かない。ちょうど幼児が自分の手に命令を伝えようと格闘するのと同様に、ロカンタンの<手>は動きのオートマチズムを失ったのだ。道具としての運動をやめた<手>にもはや<優雅さ>はない。事実性(対象=モノ性)を露呈するばかりだ。その<手>を彼はこじ開ける。<手>は運動主体であることをやめ、肉塊としてそこにある。したがって、ドアのノブの粘性は<手>の非運動性に対応していると考えるべきだろう。<手>が十分に活動的でないと、モノの反逆がおきる。


4)犯される手と殺す指

<手>がモノにふれるとき、同時にモノの方でも<手>にふれてくる。それが<嘔吐>感と呼ばれるものである。それでは<手>が他者の<手>にふれるとどうなるか?先ほど部屋にはいってきたヒトにまた登場願おう。彼(女)の<目>がこちらの<目>を<まなざし>に変質させるところまではみた。その彼(女)が今度はこちらに近づいてくる。ヨーロッパの風習ではこのときお互いの<手>が差し出され、強く握りしめあわれることになろう。だが、不測の事態も起こりうる。

「今朝、図書館で独学者が、私に挨拶をしにきたとき、彼がだれであるかを思い出すまでに、十秒ほどかかった。私は見覚えのない顔を、どうにか顔と言えるものを、眺めていたのだ。そしてまた、太い地虫のような彼の手が私の手の中にあった。私はすぐにそれを放した。するとその腕が物憂げに垂れた。」『嘔吐』、9頁

握手がそれとして機能するのはお互いに同時に<手>に力をこめ、その力の拮抗と均衡を確かめあうときである。言い換えれば、<手>を媒介に精神的なふれあいが演じられるのが握手だ。<手>はこのふれあいという目的に向かって越えられ、忘れられる。理想の握手とは<手>の完全な精神化であろう。ところが、ロカンタンも独学者も<手>に力を入れない。するとどうなるか?<手>はさわるだけである。そして、もちろん<手>はまたさわられる。精神化されない触覚の戯れ。
 精神分析・テキスト分析の手法により『嘔吐』に斬新な光をあてたドブロフスキーは、小説の中に男性性と女性性の葛藤を読み込み、男性性に同一化しようとする主体が女性化のリスクにおびえながらも魅せられるドラマをみる。彼が女性化された<手>の例として挙げるのは、ロカンタンの<手>にナイフが突き刺される場面 である。
「私は机の上に投げ出した自分の手を見る。それは生きている−それは私だ。手が開く。指が拡がり伸びる。手は仰向けに寝て、脂ぎった腹を私に見せている。ひっくり返ったけだもののようだ。指、それはけだものの脚である。」同上、154頁
この直後にナイフが突き刺されることになるのだが、「仰向けに寝て、脂ぎった腹を」みせている<手>が<猥褻な肉体>として女性化されているのは明らかだろう。
 実際、密かな粘性を帯びたドアのノブといい、独学者の握らない<手>といい、男性的な活動を解除し、性的アイデンティティを危うくする道具仕立てであることは間違いない。そしてそれを許すのがロカンタンの<握らない手>である。実は、ナイフが突き刺されるよりずっと以前に、ドアのノブを握れず、独学者と握手できないときから、ロカンタンの<手>は女性化され始めていたのである。

 <手>がその活動性を発揮する場面もないわけではない。例えば、ロカンタンの<人差し指>はあるときは殺人者となる。

「金色の毛が太陽に輝いているこの巨大な人差し指が出現したのに蝿は気がつかない。「殺さないでください」と独学者が叫ぶ。蝿は破裂する、小さな白い腸が腹からとびだす。わたしはそいつから存在を厄介払いしてやった。」同上、160-161頁

殺人者と被害者、殺害を見届けるロカンタンのカメラ・アイ。フィルム・ノワールを思わせるこのシーンで、人差し指は見事にクール・ガイを演じている。しかも、太陽に輝く金色の毛は、ロカンタンが自分の身体で唯一気に入っている「頭蓋を輝かせている赤い美しい頭髪」を思わせる。人差し指が性的アイデンティティ(男のなかの男)を獲得し、しかも殺害対象から実存(=嘔吐)を取り除くのであるから、蝿の殺害は二重の意味で脱=嘔吐的行為であるといっていい。
 また、さきほどロカンタンの<手>を握りしめることができなかった独学者の<手>ですら、行為者(痴漢の実行犯)となるシーンも用意されている。

「少し顔を廻すと、眼の端にやっととらえることのできたものがあった。それは手だった。先刻机に沿って滑って行ったあの小さな白い手である。いまその手は仰向けに寝ころび、ぐったりとし、柔らかく肉感的だった。それは、日光浴をしている水着姿の女の無頓着な裸体を思わせた。褐色の毛むくじゃらの物がそれにためらいながら近づいた。それはタバコで黄色くなった太い指である。少年の手のそば近くにその指は、男のセックスのようにまったくぶざまだった。それは柔らかい掌の方に尖端をむけて硬直したまま一瞬とまったが、それからふいにびくびくしながら掌を愛撫しだした。」同上、257頁

少年の「仰向けに寝ころび、ぐったりとし、柔らかく肉感的」な<手>は、ナイフをつきさされるロカンタンの<手>と同様、あらわな女体そのものである。それに魅せられ近づく独学者の勃起した(「尖端をむけて硬直した」)<指>。そして、犯罪現場に居合わせ、当事者の肉感性を、起こりつつあるドラマのスリルやサスペンスとともに巧みにとらえるロカンタンのカメラ・アイ(「眼の端」)。
 殺人といい、痴漢といい、その実行犯がロカンタンの視点によりアップでとらえられる。そしてその実行犯とは他ならぬ <指>(つまり<手>のなかの<手>)なのだ。ちょうど、ポオの「ベレニス」の被害者が<歯>であり、「黒猫」「告げ口心臓」のそれが<目>であったように、視点が身体の一部を切り取り、そこにフォーカスをあてる。そのとき、身体の一部は<精神>をもった独立したヒトとして振る舞い始める。


5)失神する手

 痴漢を演じる独学者の<指>は性的状況を生きているのだが、それを受ける側の少年の<手>はその気になっていない。痴漢の<手>とはいうならばひたすらさわる<手>である。そこにはふれあいはない。ちょうど、ロカンタンと独学者の握手にふれあいがなかったように。
 独学者の<手>がマダムの性器に代わったところで、ロカンタンの<手>は相変わらずさわり続けるだけである。

「私は「鉄道員さんたちの店」で夕食をとった。マダムがいたので余儀なくいっしょに寝たが、それは儀礼的感情からだった。彼女にはちょっといやになる。肌が白すぎるし、赤ん坊のような匂いがする。情熱に駆られて彼女は私の頭を胸に抱き締めた。実を示した、と思っているのだ。一方、私は、掛け布団の下で気が乗らないまま、お残りを頂戴する恰好で、その女性器を撫でていた。それから、私の腕からは、力が脱けてしまった。」『嘔吐』、93頁

ここでの力のぬけた<手>の運動は、愛撫本来の機能を果たしていないように思える。愛撫とは能動的(男性的)行為を受動的(女性的)対象に行使することではないのか?痴漢の場面 では、独学者の<手>ですら活動的な男根に姿を変えていたではないか。ところがサルトル存在論(愛撫編)によれば、力のあまりこもらない<手>の方が少なくとも愛撫の道具(あるいはむしろ素材)としてはふさわしいことになる。というのも、愛撫の特権的部署は<腹>や<胸>などあまり神経のいきとどかないところであり、本来の活動的な<手>は繊細すぎるからである。

「真の愛撫は、身体の最も肉体的な部分における二人の身体の接触、すなわち腹部および胸部における接触である。手は愛撫するが、それにもかかわらず、あまりに繊細であり、完成された道具にあまりに近い。それにしても、肉体相互に対しての、肉体相互による、肉体の開花こそは、性的欲望の真の目標である。」『存在と無』第二巻、388頁

ヒトの<身体>はあまりにも活動的(「優雅」)すぎる。その<身体>(corps)から動きをうばい、その事実性(対象=モノ)を強調し、<肉体>(chair)と化すること、これこそ愛撫の目的である。しかも、真に性的な愛撫は相互的でなければならない。つまり、二つの<身体>が相互的に<肉体>と化しあうこと。このように<身体>を<肉体>に変質させることをサルトルは<受肉>(incarnation)とよぶが、そのためにはもちろん愛撫の特権的部署である<腹>や<胸>を双方で使用するにこしたことはないというのである。それではいかに使用すべきか?

「(愛の身振りでは)肝心なのは、他人の身体の一部分をとらえることよりも、むしろ、他人の身体に対して自分自身の身体を寄り添わせることである。肝心なのは、能動的な意味で、押しつけたり(pousser)、さわったりする(toucher)ことよりも、むしろ、あてがう(poser contre)ことである。」同上、375-376頁

くり返しになるが、「寄り添わせ、あてがう」のは本来ならば、お互いの<腹>どうし、<胸>どうしであるべきだろう。神経が通 いすぎている場所は単に「あてがう」にはあまりにも行動的・活動的であり、受肉されるのに必要な受動性に欠ける。それでは、行為の特権的部署(「完成された道具」)である<手>は性行為から排除されるのだろうか?<手>を性行為においても何とか使う手だてはないものか?それがある。しかもサルトルが指南するレシピーは一見簡単である。<手>を無気力にし、そこから精神やら生命やら余計なものを一切抜き取ればよいというのだ。

「私は、私自身の腕を、さながら生命のない物のように持ち運び、相手の女の脇腹に私の腕をあてがう。彼女の腕のうえで私が行きつ戻りつさせている私の指は、私の手の末端で無気力になっている。いわば、そんなぐあいである。」同上、376頁

一言でいえば、<手>を腹部化(あるいは胸部化)すればよいのである。<手>の腹部化がそう簡単にいくものなのか、また腹部化された<手>が相手の<腹>や<胸>によって果 たして<受肉>されるものなのか?この点については後で検討する必要があろう。
 それにしても、<手>が基本的に能動的・機能的な存在であることはあきらかであり、サルトルも<手>を愛撫に用いた場合に、<手>が活動的な<身体>へ逆戻りするリスクについてふれている。

「愛撫の場合に、私が私の無気力な手を相手の脇腹にあてがって、ゆっくり滑らせるとき、私は相手に私の肉体を感知させる。[..]私が手を伸ばしたり、手を離したり、あるいは手を握りしめたりすることは、行為している身体に逆戻りすることである」同上、387頁

だが、とサルトルは続ける。動きながらも、<手>は失神しているのだ、と。

「(愛撫とは)私の手を肉体として失神させることである。手が相手の身体に沿っていつとはなしに動いていくままにまかせること、手をほとんど意味のないやさしい触手に還元すること、手を一つの単なる存在に還元すること、手を絹のようでもあり繻子のようでもあり、幾分ざらざらしたところもある一つの単なる物質に還元すること、それは、指標をたて距離をくりひろげる者であることをみずから断念することであり、自己を単なる粘膜たらしめることである。その瞬間に、性的欲望のコミュニオンが実現される。おのおのの意識個体は、自己を受肉させることによって、相手の受肉を実現したのである。」同上、387頁

<手>は失神しながらも(後に見るように、サルトルによれば失神こそ受肉化の最高の形である)、相互性の法則から相手を受肉させる(要するに性的に興奮させる)。そのために、<手>は腹部化の段階を越え、物化、粘膜化(男性性器化)へと進む。だが、本をとりにいくためにノブを廻す<手>のように目標にむかって道具連関を生きる<手=道具>としてではない(「指標をたて距離をくりひろげく者であることをみずから断念する」)。たえず未来=目標に向け現在を超える<手=道具>としてではなく、成り行きまかせに現在と戯れる、質感のある<手=布=粘膜>として。

 マダムの性器をなでるロカンタンの<手>は少なくとも『存在と無』の記述によれば、愛撫の条件を一部分は満たしていることがわかる。「気が乗らないまま、お残りを頂戴する恰好で」なでる<手>は、少なくとも素材的には、質感のある<布=粘膜>となった失神した<手>に近い。問題があるとすれば、脱力した点ではなく、その<手>が「あてがう」(poser contre)以上の、あるいは以下の動きをなぞった点なのだろうか。確かに、相互性を旨とする愛撫においては、「能動的な意味で、押しつけたり、さわったり」してはいけない一方、相手の受肉化を促すためにはある種の能動性(「あてがう」)も必要であった。能動と受動の微妙な均衡。サルトルの相互(均衡)愛撫理論が記述する条件である。だが、これは体験の現象学的記述にすぎないのだろうか?これがもし相互性という理念的必要性から逆に要請されたものだとしたら?そもそも愛撫が相互的なものでないとしたらどうなるのか?この点についてはサルトル存在論の構築のために召喚された<手>ではなく、サルトルその人の<手>の動きをみる必要があるようだ。(以下次号)