どうしてわたしはこういう心理学者なのか?


 ここでは,心理学者としてのわたしを語るのに欠かせない重要な人物を紹介したいと思います。この方たちが研究者としてのわたしを創ったと言っても過言ではありません。名前を出されて迷惑だ,と言わないでくださいね。


恩人

 ほぼ,出会った順だと思います(敬称略)。

 サトウタツヤ(立命館大学教授)  サトウタツヤさんと渡邊芳之さんが都立大の大学院生でなかったら,私は大学院に進んでいなかったと思います。学部生のときにあまり心理学が好きでなかったんだけれど,心理学の現状を憂う研究をしていたんです,この方たちは。タツヤさんには,両親を除けば一番私に投資してくれた方でもあります(笑)。あまりにすごい人すぎるので,目標にしては遠すぎるのですが,ちょっとでもタツヤさんを驚かしてやろうっていう気持ちがずっとあったような気がします。何がうれしいって,タツヤさんに心理学者を紹介するとき。タツヤさんの顔の広さは半端じゃないですから。
 渡邊芳之(帯広畜産大学教授)  わたしが学部生の時に二人でよく飲みに行きました。主として女性問題の話が多かったかなぁ。なんか妙に話があったような気がします。昔いかに貧乏だったかとか。そういう話のついでに,研究の話もしたような気がします。いや間違いなくしました。だから非常に気楽な形で心理学について学べたように思います。
 詫摩武俊(東京都立大学・東京国際大学名誉教授)  学部時代の指導教官。私が学生のとき,都立大の心理学研究室では3年次に指導教官を決めることになっていたが,詫摩先生自ら私をスカウトしてくださった。迷っていたけれども,最終的には先生の一言が決め手になりました。山梨大へのアプライの際に推薦状を書いていただくなど,その後も本当に世話になっています。
 加藤義明(元 東京都立大学教授・故人)  修士2年次からの指導教官。学部生の時から,加藤先生のゼミが中心の合宿には参加してました。合宿といっても,ただひたすら遊んで飲むというもの。加藤先生の「教育しないことこそ教育」は先生の教育観を見事に表した名言。加藤ゼミから助手になったのは,私が最初で最後でした。還暦を目前にして急逝してしまったからです。助手に推薦してくださると聞いたときに,いぶかる私にたいして「毎日が試験だって言ったでしょ」「だけどきっとダメだと思うよ(他の先生が反対するという意味)」と言われたのをよく覚えています。小笠原でのフィールド研究のきっかけも,加藤先生が連れて行ってくれた小笠原での調査研究です。
 井上裕光(千葉県立保健医療大学教授)  心理統計やデータ解析にとっても詳しい人が,心理学の統計手法が間違っていると言ってたのは,ひねくれ者の学部生にとってすごく魅力的でした。しかもショーヤさん(井上さんのあだ名)が都立大の博士課程にはいったときの同期生が,上記のタツヤさんと渡邊さん。強烈なトリオで,当時の都立大心理の研究室をかき回していた(失礼!)ように思います。修論は,彼の作成した統計ソフトなしでは書けませんでした。当時は,先輩からラップトップをかりて,一晩かけて計算させたりしてました。
 川野健治(国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所室長)  修論で行き詰まっていたときに,ショーヤさんのソフトについて教えてくれたのは川野さんでした。それ以外にも,私の行き詰まりの状態をよく理解してくれて,的確なアドバイスを何度もしてくれました。「シャープ」「切れ者」「カミソリ」とかそういう形容がぴったりの先輩。私自身が書いた論文のなかで一番のお気に入りは川野さんとの共著。
 荘厳舜哉(元 京都光華女子大学教授)  博士課程に入ったばかりのときに,京都の学会会場のそばの路上で,先生が編集委員長をする雑誌に論文を投稿するように言ってくださいました。それが最初の投稿だったわけですが,おかげで投稿することに対するハードルが高くならずにすみました。
 大村政男(日本大学名誉教授・故人)  わたしが博士課程2年のとき,翌年日大で日心大会が控えていて,そこでシンポジウムをやらせてもらえないかと先生に直談判しました。われながら恐るべし。直談判のときは,「もうおおよそ決まっているから,ワークショップでやってください」と言われたのですが,わたしはそれで収まらず,帰宅後,どうしてシンポジウムをしたいのかをくどくど手紙に書いたのです。本当によくやるよって感じですが,先生はその熱意(自分で言うな)を受け止めてくださり,見事翌年のシンポジウムにわたしの企画が入り込んだのでありました。それ以外にも,就職が決まったときにYシャツをくださったり,しゃぶしゃぶをごちそうになったり,ずいぶんお世話になっています。

  
ファン

 実際にはもっとファンがいるんですが,大学院のときからファンである方のみ(みなさん例の日心シンポのときにパネリストになっていただいています)記載することにします。

 南博文(九州大学教授)  わたしが博士課程1年のとき,ソーシャルサポートのエピソードをKJ法でまとめた学会発表をしたんですが,そのあとの大宴会(通称ウラコン)で,興味を持って話を聞いてくださったのが最初の出会いです。心理学の中で,フィールドワークについていち早く目をつけられていた方の一人です。
 南風原朝和(東京大学教授)  たしか修士の1年のときだったと思いますが,教育心理学会の発表論文集の小講演のなかで書かれていた有意性検定に関する議論が,あまりに明快すっきりに書かれていて興奮した覚えがあります。電話でシンポジウムのパネリストを正式にお願いするとき,かなり緊張しましたが,その後飲み会を設定してくださったり,楽しく歓談ができる関係になって大変ありがたいと思っています。
 佐藤郁哉(一橋大学教授)  川野さんにバイト先で紹介されて読んだ「フィールドワーク」(新曜社)はわたしにとってかなり刺激的でした。わたし(たち)が言いたいことがきれいに整理されているって。オーストラリアに在外研究に行く直前,(佐藤・溝口編)『通史 日本の心理学』(北大路書房)と,そこに書いたわたしの「研究法の変遷」を評価してくださり,また,著書を送っていただいたりし,ありがたく思っています。




筑紫哲也氏(2008年11月7日没)との出会い

 1995-96年頃,性格心理学会の経常的研究交流委員会の委員だったとき,マスコミ関連で公開シンポをしようという話が持ち上がったとき,なぜかわたしが担当って感じになりました。それじゃいっそのこと,マスコミ人をパネリストに迎えたい(公開でもあるし),ということでまず思いついたのが筑紫さん。新聞,雑誌,TVの3つのメディアを経験されており,貧乏学会への理解もありそうだなと勝手に推測し,余人をもって代え難いと思ったのです。当時も,ニュース23のキャスターをされていたのですが,パネリストの依頼をした時期は,ちょうどTBSがオウム真理教幹部に坂本弁護士のインタビュービデオを事前に見せていたという問題で大騒ぎでした。そのせいかどうかはわかりませんが,筑紫さんに連絡を取るために,まずTBSに電話してみましたが,まったく相手にされませんでした。次に,週刊金曜日の編集部に電話をしてみたら,編集部気付で手紙を書くように言われました。何とかコンタクトは取れそうだと言うことで,熱のこもった(自分で言うな!再び)手紙を書いた結果,パネリストを引き受けてくださったのです。3時間半のシンポジウムでギャラは2万円。会場までのタクシー代も自腹。本当にうれしかったしありがたかったです。シンポジウム後の歓談で,そのときの手紙に書いた「大公開時代」というコピーを筑紫さんが気に入ってくれたことがわかったので,「多事争論で使ってください」と言ったら,忘れた頃(8ヶ月後)に使ってくれました。偶然妻とテレビを見ていたときに気付いたんですが,あわてていたのでビデオにうまく録画できませんでした。事務所に電話したら,ありがたいことに,その部分をコピーしてくれました。それは今やわたしの家宝となっています。
 先日は,集英社新書『ニュースキャスター』を寄贈してくださり,感激しちゃってます。

※ ニュース23多事争論に紹介された「大公開時代」については,http://www.tbs.co.jp/news23/ から右上部にある「多事争論」をクリックし,左上部にある「月別リスト」をクリック。次の画面で1997年の7月をクリック,さらに17日をクリック。ここに出ている「知人の学者」が私。

※筑紫さんが亡くなってしまい,有名人からの年賀状が届かなくなりました(苦笑)。政治信条の面ではいろいろな評価があると思いますし,ほんの少しのやりとりだけでしたが,私から見たら本当にいい人でした。